家に着いた時には既に12時半がまわっていた。さすがにもう寝ているだろうと思っていたのだが、家の明かりはまだ灯っていた。俺は複雑な気分になり、扉を開けるのを躊躇う。
 顔を合わせたくないような、会って話をしたいような。もしかしたら、寝ないで自分を待っていたのだろうか、とうぬぼれた考えすら過ぎる。
 さて、どうするか、と思うがここまで来てしまったのだ、いつもよりも重たく思える扉を開けるしかない。俺は意を決して玄関のドアを開けた。

「ただいま〜……」

 そろりそろりと入り込む様は我ながらなんて情けないのだろうと思うのだが、そんなことを気にしている余裕はない。しばらく玄関で聞き耳を立てて、中の様子を覗うが物音や返事の声は聞こえてこなかった。
 もしかしたら、電気を消し忘れて寝ているのだろうか。俺はそう思うと、靴を脱いで慣れ親しんだ我が家へと足を踏み入れる。
 寝ているかもしれない藍に気づかいながら、そっとリビングへと向かう。きぃと音を立てる扉に俺は一瞬不快感を覚え、そのうちに直そうとぼんやり思う。そして、その扉の向こうには少女が机に突っ伏して眠っていた。

( あい )

 そっと胸の中で少女の名前をなぞる。なんだか、すごく久しぶりのような気持ちになる。気まずいながらも一緒に生活をしているので、顔を合わしていたはずなのに。
 俺はそっと眠る少女の隣に腰掛け、顔に掛かる長い黒髪を退けてやる。
 そこにはよく知った少女の幼い寝顔があった。俺はなんだか安堵して、ほっと息を吐き出す。
 3日前に見た大人びた表情などまるで嘘のようだと思う。でも、きっと少女の内には幼さと混ざり合うように、大人びた心があるのだろう。
 いつの間にこんなに大きくなったのだろうか。ずっと小さな子どもだと思っていた。一人になるといつも泣いていて、夜も一人じゃ眠れなくて、人見知りでいつも俺の後ろに隠れていた。本当にただの小さな子どもだったのに。
 でも今目の前で眠る少女は、俺の肩に頭が届くくらいに成長している。沢山の友人ができて、学校では積極的な子だと称されているらしい。おしとやかというようよりも、男勝りで、口数では俺はもう到底敵いそうもないくらいだ。

(おまえのお母さんにそっくりだなぁ)
 
 今の藍に良く似た女性を思い出して、俺はふっと笑みを溢す。
 腰まで伸ばした艶めく黒髪、くるりと丸い瞳、整った顔立ち、勝気な性格、だけどちゃんとやさしくて、悪戯っ子みたいに笑う顔も、照れたみたいにはにかむ顔も、ふんわり微笑む綺麗な笑顔も。どれもみんな、そっくりで。
 本当にいつの間にこんなにも成長していたのだろうか。
 俺は記憶の中の藍が、藍の母親に重なっていくのを止めることもできず、ただ込み上げてくる懐かしさに思いを寄せた。
 ただの小さな子どもだと思っていた。実際にそうだったら、楽だったのに。俺は卑怯にもそう思う。だって、どうあっても藍の思いに応えることなど俺にはできない。
 14歳の年の差だとか、世間体とか、色々あるけれど、そういうことではなくて、藍をそういう対象としてみることが俺にはどうしてもできない。
 してはいけない、のだ。

(美咲さん、俺なんか間違ってたんでしょうか、)

 ただ、藍が幸せになってくれればいい、と思っていた。ずっとそればかり願っていた。

それが、唯一の贖罪だから、

 うずまく感情は絡みつき過去を引きずり出す。もう10年も前のこと、けれど、10年しか経っていないとも思える。つい昨日のことのように思い出せる。やさしくて、あたたかな記憶は同時に忌まわしい出来事を想起させてしまう。

 ――藍の両親が死んだあの日、を。

 美咲さん、一馬さん、藍、

 静かに触れた黒髪はやわらかくて、ひどく心地よかった。そのまま頭をそっと撫でつけても藍は起きる気配を見せない。
 穏やか寝顔は幸福な日々を否応なく思い出させて、心は簡単にぐらついて、身勝手にも痛みを訴える。

(藍……ごめんな)

 おまえの大切な両親を奪ってしまって、
 きゅっと藍に触れる手に力が籠る。すると、それに反応して藍の瞼が震えた。俺はびくりと大げさに驚いて体を揺らし、手を引っ込める。
 藍の表情は覚醒に向かっているらしく複雑そうに揺れ動く。
 起きるなと思いながらもどこかで目を覚ましてほしいと思っている。そんなどうしようもない矛盾を抱きながら、藍を見つめる。

(あ、い)

 心中で名前をなぞる。すると、藍の瞼がゆっくりと開いた。





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