「…か、おる…?」

 ぼんやりとした黒の瞳はしばらく逡巡した後、ゆっくりと俺を捉えた。紡がれた名前は寝起きのせいで、掠れている。だけど、妙に耳に心地よく響いて心を震わした。

「おはよう」

 できるだけ落ち着いて、ゆっくり発した声はそれでもどこか緊張を帯びてしまった。まだ、ちゃんと覚醒してないらしい藍がつぶらな目をしぱしぱさせてから、驚いたようにその目を大きく見開く。

「あ、え…、か、おる!?」

 え、え、と目を白黒させる様がおかしくて俺は思わず笑ってしまう。

「え…、なんで、え、」

 そんな俺をみて藍はさらにあたふたと慌てるものだから、俺はますますおかしくなる。藍は言葉を見失ったようで、しばらく意味のわからないことを発した。

「……かおる」

 笑い続ける俺にさすがに藍も冷静さを取り戻したのか、じとっと咎めるような声を出す。

「ふふっ、悪い悪い」

 気安く謝る俺に藍は怒ったようにふい、と視線を逸らしてしまった。

「藍、そんなに拗ねるなよ」
「……拗ねてない」

 拗ねてるじゃねぇか、未だに顔を背ける藍を揶揄するように言う。
 思い悩んだよりもずっと普段通りに話ができていることに俺は内心で安堵の息を吐く。しかし、その浅はかな考えはすぐに吹き飛んでいってしまった。

「…っ、拗ね、てっ、ない、もんっ」

 聞こえてきた藍の声は小さく震えていた。ぎょっとして覗き込んだ顔には、涙が光っていて、今度は俺が慌てる番だった。

「あ…い…?」

 呼びかける声はなんとも頼りなかった。藍は泣くまいと必死で目尻に溜まる涙を堪えていて、その姿は痛ましいほどだった。
 じくじくと胸が痛む。なんて都合がいいんだろうか。目の前の少女としてあげられることなどなにひとつとしてないのに。俺は思わず伸ばしてしまった手を引っ込める。

「…っ、ふっ、くっ、もう、きら、われた、かと、おもっ、た、」
「…っそんな、」

 そんなことあるわけない、あるわけがないだろう。言葉はうまく声になってくれない。俺はひどく動揺していた。

「か、おる…、もう、わすれて、いいから」

 その後に続く言葉は涙に呑まれてしまった。忘れてもいいから、それは紛れもなく告白のことだろう。

 俺は無性に藍を抱きしめたくて、だけど、何度も何度もそれを躊躇う。
 ただ自分の愚かさ思い知る。藍がどんな思いで告白したのかなんて、考えようともしなかった。聡い藍が告白したら俺がどういう反応を返すか考えなかったわけがない。きっとすごく悩んだのだろう。俺が困ることをわかっていて、それでも、云わずにはいれなかったのだ。
 それなのに、俺は自分のことで手一杯で、どうすれば穏便に済むだろう、とかそんなことしか考えてなかった。真剣に藍に向き合うこともしなかったのだ。

「……あい、ごめんな、」

 やさしく、できるだけやさしく、濡れた頬に手を伸ばす。触れた先から、びくりと震える身体を感じる。いつも明るくて気丈な少女が、弱弱しく小さく見える。

 なんで、俺なんか好きになったんだよ
 もっと他に普通に恋愛できるやつを好きになればよかったのに。よりによっておまえを不幸にした張本人を好きになるなんて。

「か、おるぅ…」

 小さな子どもが親に縋るように俺を呼ぶ。
 その声が、震える身体が、冷たい涙の温度が、ぜんぶ、切なくて、苦しくて、
 ただ、愛しかった、
 俺はどうしようもなくて藍に手を伸ばしてしまった。
 ぎゅうっと抱き寄せた身体は昔よりは確かに成長していたけれど、思ったよりもずっと華奢で、儚げだった。
 腕の中で息を呑む気配を感じる。藍の身体は驚きのせいか強張っていて。
 俺の胸中には後悔とか罪悪とか背徳とかがひしめきはじめる。なんだか取り返しのつかないことをしてしまったようで。
 だけど、

「か、おる?」

 おずおずと問いかける藍の声に俺は現実に引き戻される。少しだけ冷静になりはじめた頭が警報を鳴らしている。

「わ、るい、」

 がばっ、と藍を胸の中から解放して謝る。揺れ動く黒の瞳は不安を如実に表していて、俺はとんでもないことをしてしまったと今さらながらに気付く。

「かおるっ」

 きゅっと藍の手が俺に縋りついてきて、まずい、と思う。誤魔化さなくてはいけない、そんな卑怯で愚かなことを思ってしまう。

「かおる、わたし、薫のこと、っ」
「言うな!」

 俺は咄嗟に言葉を遮る。藍は驚きと恐怖を貼り付けて、言葉を呑んだ。

「…頼むから、言わないで、くれ」

 ああ、なんて卑怯で、どうしようのないのだろう、
 それでも、俺には、真っ向から藍と向き合う勇気もないのだ、

「…ッ、かおるのバカ!」

 すると突然、藍が大声を出した。俺は驚いて目を見開くと藍はさらに言葉を捲くし立てた。

「、バカっ!大バカっ!このヘタレ!意気地なし!腰抜け!弱虫!バカっ、バカ!大、バカ!…っ、卑怯よ、ずるいよっ、…っ、ずるい、」

 ぽろぽろと零れ落ちるのは、罵る言葉と、透明な涙。
 俺は呆然として、身動き一つできなくなってしまった。

「、っわたしは、しあわせだった、ずっと、ずっと、幸せだったの、両親はいなかったけど、それは、悲しかったけど、薫がいてくれて、一緒にずっといてくれて、しあわせだった、」

 今だってすごくしあわせよ、

 藍の最後の言葉は小さくて消え入りそうなほどだった。だけど、そのひとつひとつが染み込んでくるようで、俺は今はじめて血が通ったような気がした。様々な感情が駆け巡って、不意に瞼の裏が熱くなるのを感じた。

「あい、でも、」

 俺のせいで、美咲さんも、一馬さんも死んでしまったんだ。藍の大切な、大切な人を奪ったんだ。許されていいはずがない。

「かおる、わたしは、ね。一度もかおるのせいだなんて思ったことない。両親は不幸な事故にあっただけ、実際に、事故だったんだから、」

 ぽつりぽつりと藍の言葉が降りそそぐ。

「わたしは、そんなことよりも、薫がずっとずっとそれを気に病んでいることのほうが、辛い。わたしが薫といて幸せだってわからない、なんて、そんなの悲しいよ、悲しすぎる、よ、」

 ばか、そう言って藍は俺の胸に顔を埋めた。
 俺はそれを突っぱねることも拒むこともできず、ただ、藍の涙を胸に染み込ませた。小さく震える身体は頼りなくて、さきほどまで捲くし立てた言葉が嘘のようだった。

 俺は戸惑いながらも、情けなく垂れ下がる腕を一瞬だけ躊躇してから、震える肩に回した。腕の中にしまい込んだ小さな身体は、あたたかくて、いとおしくて、すべてが満たされるようだった。
 きゅうっ、と少しだけ抱きしめる腕に力を込めると、藍はそれに応えるように背中に腕を回した。すると、俺の目からはついに涙がこぼれ落ちてしまい、止めるすべもなく、ただ静かに泣いた。
 一体どれくらいぶりの涙だろうか。もうそれすらわからないくらい、泣いていなかった気がする。それは自分だけではなく藍も同じだったように思う。

 俺たちは少しずつ歯車を狂わせていたのかもしれない、
 さみしさを埋めあうのに必死になりすぎて、毎日をやり過ごすだけで精一杯だった。不幸だなんて思ってはいけない、そう思って。傷痕を隠して笑っていた。かわいそうなのは藍なのだから、俺は。

 だけど、藍はかわいそうなんかじゃないのだ。それは俺が許されたいがための身勝手な妄想でしかない。この小さな、小さかった少女は、俺よりきっとずっと強くて、だけど、本当は、とても弱くて、泣きたくなるくらいに優しい。
 藍を贖罪の対象にしていたのは俺のエゴでしかない。そんなふうに思われている藍がどんな気持ちでいるかなんて、簡単に想像が付くのに。

 ごめんな、

 そんな俺をそれでも好きだという。腕の中のぬくもりが愛しくて、ただ、それだけで許された気がした。それこそ身勝手な妄想なのかもしれないけれど。

 しあわせにしたい、しあわせに、
 俺にできるのだろうか、
 この汚れた手で、

「あい、」

 まだ泣き止んでいない藍の肩が震える。俺はゆっくりとその肩に顔を埋めて、もう一度愛しい少女の名前を呼んだ。

「か、おる、」

 戸惑う声がかわいくて、だけど、どこか切なくて。俺はなんてひどい大人だろうかと思う。それでも、この心地良い温度を手放せない、手放したくない。

 美咲さん、一馬さん、ごめん、

「あい、藍」
「か、おる…?」

 おずおずと上げられた顔は涙の後を残していた。オニキスの瞳は少し赤くなっていて、戸惑いと不安で揺れている。俺はそっとその目の端にキスを落とした。

 驚いて顔を赤く染める姿がかわいくて、ぱくぱくと金魚みたく動く口がおかしくて、俺は思わず笑ってしまう。藍はそんな俺にさらに慌てて、すぐに拗ねたように膨れてみせる。

「……ばか」
「ふっ、わるい、ごめんな」

 ごめん、俺はずるくて卑怯でひどい大人だ。
 だかど、せめて、ありあまるくらいの愛をあげよう。きみが鬱陶しくて嫌になるくらいに。14年前にはじめて会ったときから、ずっと、愛していた。これからも、それが変ることはない。どんな形になろうとも。ずっと、ずっと、

「藍…、あいしてる」

 世界でいちばん、ただ、これからもずっと。

「…っ、」
「あいしてるよ」
「…っ、ばか、」

 だから、幸せだよって笑っておくれ。

 藍は顔を真っ赤にして、それから、オニキスの瞳からぽろぽろと透明な雫を落とした。
 俺はひどい大人になることを決めて、小さな身体をまた腕の中に閉じ込めた。




 いまこうふくがうでのなかでそっとふるえた。






081221
は、恥ずかしい/////
友人がラブラブあまあまをご所望だったもので…ごにょごにょ…
わたしの少女漫画好きがありありと出ている作品ですね。