「彼女の父親は彼女を死なせたくないと思っていたんだ。でも、彼女はもう助かる見込みなんてなかった。父親は苦しませるとわかっていても延命治療を打ち切れなかった。でも、彼女はぼろぼろに弱って死んでいきたくなかったんだろうな、だから、オレに殺してくれるように依頼してきた。……たぶんだけど、彼女は父親のパソコンからオレの存在を知ったんだと思う。彼女の父親は、政府関係者で皮肉にもオレの上の連中だったんだ」
レイは語り終わるとふーっと長い息を吐き出した。普段多くを言わないレイには疲れたのかもしれない。
「……彼女が、病気だったなんて、そんな、」
ぼくは事態が飲み込めずに呆然とした。
彼女はずっと死にたがっていた。でも、病気だなんて、ひとことも言っていなかった。だって、ぼくはずっと彼女は自殺したんだって思っていた。家族が嫌になった、ぜんぶが憎くなった、世界が真っ暗だよ、ってそう嘆いていたのに。
「うそだ、そんな、」
そんなこと、ぼくは、なにも知らなかった!
なんで、なにも言ってくれなかったんだ。自殺だと思い込んで、彼女がぼくを置いていったと思い込んでいた。だけど、本当は死にたくなんかなかったなんて。ぼくは愚かだ。どうしようもない。なんで、なにも気付けなかったんだ。彼女が死という恐怖に本当は震えていたことを。
「……イオリ、ごめんね、」
びくっとぼくの身体が震えた。
「彼女は最期にそう言ったんだ、」
「…ッ、」
「イオリっておまえの本当の名前だろ?」
イオリ、イオリ、好き。大好き。ずっと一緒にいようね。わたし、あなたに出会って本当に幸せだよ、幸せだった。
ああ、ああ、ああ、
「ハ、ルカ、」
ぼくが蓋をした彼女がいっせいに溢れだす。きれいに微笑んでいた彼女は、もういない。
どこにも、いない。
「ハルカ、ハル、カ…っ、」
涙が視界を覆っていった。ずっと、我慢していたのに。泣いてなんかやるもんかって思っていた。彼女のことを安っぽい涙でなんか流してしまいたくなかったから。
ハルカの名前を名乗ることでぼくは一生彼女を忘れないと思った。ハルカの名前を背負えば一緒に死ねると思った。
でも、ハルカはぼくの名前を呼んで死んだ。
本当は一緒に生きたいと願いながら。
そんな彼女がぼくに残酷にも生きろと言う。
だいすきよ、イオリ!(だから、生きて、)
「うわぁぁああああ……っ!!!」
ずっと一緒にいよう、とハルカはいつも言っていた。でも、いつの日から彼女はその言葉を言わなくなった。だけど、違った、言えなくなったのだ。
一人で苦しみを隠しきれず、ぼくにこぼしてしまった「死にたい」の言葉は彼女のSOSだったのだ。
助けて、死にたくない!
本当はそう叫んでいたのだ。それなのにぼくは、だったら一緒に死のうなんて言ってしまった。ハルカは一体どんな気持ちでその言葉にうなずいていたのだろうか。
ぼくが一緒に死ぬなんて言ってしまったから、ハルカはなにも言わずにぼくの前から去ると決めたのだろう。ぼくに生きて欲しいと願ったから、一緒に死にたくなんてなかったから、ハルカは一人で黙って逝くしかなかった。
ハルカ、ごめん。ぼくが弱くて情けないばかりに、きみにつらいことを強いてしまった。つらいよ怖いよって泣かせてあげることもできずに、ただ残酷な嘘をつかせた。ごめん。
最期の最期まで一緒にいてあげることができなくて、ごめん、ごめんね。
そして、最期の最期まで、ぼくを思っていてくれて、ありがとう。
ハルカ、ハルカ、ぼくもきみがだいすきだよ。
ぼくはハルカの墓石をそっとなでる。それは当然冷たくて、彼女のぬくもりなど微塵もなかった。だけど、その冷たさがぼくの気持ちを少しだけ落ち着かせてくれた。
「ハルカ」
涙で掠れた声で彼女の名前を呼んでみる。声に出すことができなかった名前。重たくて苦しかった。ぼくの罪の証。彼女を救うことができずに、ひとりで逝かせてしまったことへの罪。だけど、
きみは笑っていけたんだね。
ひとりじゃなかったんだね。
「……レイ、」
ぼくはまだ涙で掠れている声で彼の名前と呼ぶ。背後に立っていたレイが反応するのを感じて、ぼくはゆっくりとレイの方へ振り向いた。
レイはきつくくちびるを噛みしめて沈痛な面持ちをしていた。
「……レイ。ありがとう、ハルカを送り届けてくれて、」
「……っ、なにを…!」
レイはぼくの言葉に息を飲み込み、ますます痛そうな顔になる。
「ハルカは苦しまないで逝けたんだ。ひとりでさみしく逝ったんじゃない。きみが側にいてくれたんだ、」
だから、ありがとう。ぼくはレイに向かって微笑んだ。
我ながらひどいやつだと思った。レイは感謝を求めているわけではない、罵ってくれたほうがずっとましだと思っているはずだ。
でも、ぼくには彼を責めることなどできない。
「やめろっ、オレは、殺したんだっ!」
「うん、でも、それがハルカの願いだったんだ」
ぼくには絶対に叶えることができない願いだったんだ。それをレイは叶えてくれた。ぼくは言外にそう含めてできるだけやさしい声で言った。
レイの顔が泣きそうに歪んでいく。
「ちがう、そんなんじゃないっ、オレが、オレは、」
レイは言葉をつまらせて地面を睨みつけた。ぼくはそんな彼にそっと近づいて、きつく拳が作られていた手を取った。
「レイ、ごめんね。ひどいことを言って、ひどいことをさせて。ぼくはきみに感謝したい。ぼくの大切な人を守ってくれたんだ」
「…っちがう、ちがう、オレはただの人殺しだっ、守ったんじゃない、殺したんだ!」
「ちがう、ちがうよ、レイ。きみはハルカを苦しみから守ってくれたんだ」
ちがう!とレイはかたくなに叫ぶ。ぼくはどうすればこの気持ちが伝わるのかわからなくて、それでも、どうしても伝えたくて、レイをそっと抱きしめた。
レイはびくっ震えたが拒んだりはしなかった。
さらさらの黒髪がぼくの頬をくすぐる。その黒髪の隙間から覗いた耳にぼくはそっとささやく。
「レイ、ありがとう、」
「…っ、ばかやろ、」
(おまえも彼女もおおばかやろうだ、)
「うん、ごめんね、」
レイは小さく嗚咽をこぼしはじめた。ぼくの肩口が濡れる。彼の宝石みたいな瞳がいまはうつくしく濡れているのだろうか。レイと抱きあっているぼくにはそれを確かめることはできない。でも、たとえ彼の瞳を見られたとしてもぼくの瞳もまた濡れるのを感じたから、ちゃんと見ることなどできなかっただろう。
ぼくらは声を押し殺して静かに泣いた。
サザナミはそれを一部始終見ながら、ただタバコの煙をくゆらせていた。
風が吹いて、煙が筋を描いて空へと消えていく。
生きている、ぼくたちは、生きている
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