レイがはじめて彼女と出会ったのは真っ白で、清潔で、薬の匂いがする部屋だった。彼女の白く細い腕には点滴の針が刺さっていて、レイはなんだか無償に哀しい気分になった。
 死にそうなやつを見るのなんて慣れてしまったけど、彼女はちゃんと生きていると感じたから。でも、もう彼女は死ぬのだって思うと、オレが殺すのだと思うと、少しだけ泣きそうだった。

「はじめまして、死神さん、」

 彼女はにっこりと微笑んだ。天使みたいに。

「……ああ、」
「わざわざ、ありがとう。そして、ごめんなさい」

 天使は死神にお礼を言って謝った。

「いや、気にするな」

 これは仕事なんだ。見合うだけの報酬は貰っている。レイは胸中だけで付け足す。

「ねぇ、死神さん、急いでいる?」
「え?」
「少し、ほんの少しだけお話できない?」

 初対面なのにごめんなさい。そう言って彼女は照れたように笑った。レイはこのあとに仕事があることを覚えていたが、そっとしまい込んだ。そして、クライアントとは一定の会話以外しないという自分の中のルールも都合よく忘れた。なんでそんなことをしたのか自分でも不思議だったが、レイには彼女の願いを振り払うことなどできなかった。

「ああ、構わない」
「ほんとに?」
「ああ、」
「わぁ、ありがとう」

 彼女の顔がぱぁっと明るくなる。どうして、そんなふうに笑えるんだろうか。レイは死ぬ間際にこんな顔をするやつを見たことがなかった。

「わたし、ハルカって言うの」
 
 よろしく、そう言って彼女は手を差し出してきた。これから死ぬやつが「よろしく」ってなんだよ、レイは苦笑しながらその手を取った。
 
 彼女はレイにいろいろな話をした。どれも下らなくて、取るに足らない話ばかりだったけれど、レイは真摯な顔をして聞いていた。どれもかれも、きらきらときらめいているようだったから。
 そして、どれもかれも、哀しかった。

「ああ、見て、空が、」

 彼女が外を指差す。

「ああ、」
 
 外は紅く染まっていた。もうすぐ日が暮れる。随分と長い時間が経っていたみたいだ。

「今日は、ありがとう、」
「いや、」

 ああ、もう終わりだ。

「さいごに、楽しかった」
 
 レイは言葉にならなくて首を横に振った。泣き出しそうだった。彼女がまだ笑うから、泣き出しそうだった。

「ねぇ、死神さん、わたしね、大切な、すごく大切な人がいるの、」
 
 彼女は静かな声で言った。レイはうなずく。

「でもね、わたしずるいから、何も言わないで来てしまったの。彼は意外と軟弱でね、きっとわたしがいなくなったら泣いてしまうわ。それが、つらくて黙って来てしまったの」

 彼女の顔がはじめて泣きそうに歪んだ。

「言わなくても、いずれわかるだろ?」
「……ええ、そうね。でも、彼が悲しむ顔を見たくなかったの、」

 ずるいでしょ?彼女は泣きそうに笑う。レイには言える言葉などなにひとつ持っていなくて、うなずくこともできなかった。

「彼は一緒に死んでくれるって言ったの。でも、やっぱりそれはできなかった。好きな人には生きていてほしいもの。でも、わたしのことを忘れてもほしくないって思ってしまったの。」

 ずっと、彼のなかで、彼を苦しめる存在になりたかった。

「でもね、それは間違っているって思ったの。死んでいくもののエゴだわ。卑怯で汚いエゴでしかないの」

 だからね、

「死神さん、もしも、もしも、彼があなたのところに来たら叱ってやってほしいの。生きろバカって、」

 微笑んだ彼女は、死ぬなんてともて思えないほどにしゃんとしていた。レイの喉は張り付いたようで、なかなか声を出してくれなかった。

「……どうして、ソイツがオレのもとに、来るんだ?」
「うーん、なんとなく」
「なんとなく?」
「そう、なんとなく。そんな気がするの。死ぬ間際だから、神様に近づいているのかな、」

 神様なんていない。レイは思う。もし、神なんているんだったら、オレはそいつを殺したい。
 ふふっ、と彼女は笑う。

「運命だよ」

 すべてを受け入れている、そんなふうだった。
 死ななくてはいけない彼女と、殺さなくてはいけないレイの、呪われた運命。
 
 ああ、やっぱり、神なんか死んでしまえ。
 
 レイはやわらかなふくらみにそっと手を寄せる。
 彼女はきれいに微笑むと目を閉じた。

「―――、ごめんね、」

 そう小さくつぶやくと、彼女は静かに眠りについた。

(さよなら、)

 月のきれいな夜だった。






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