目が覚めるとそこには見知らぬ天井が広がっていた。朦朧とする意識の中で現状を把握しようと体を動かしてみるが、痛みに呻くだけになってしまった。体が重い。石みたいだ。それでも、ここが現実でぼくはまだ生きていることだけはわかった。

 生きている、

 その事実にぼくの中で失望と安堵が行き来するのを感じた。生きているから、体が痛む。息苦しさを感じる。冷えた足先がじんわりと温まり始めているのを感じる。
 うれしい、かなしい、つらい、どの感情も今のぼくには当てはまらない。ただ、ひどく虚しかった。

(どうしてまだ生かされるのだろう、)



「目が覚めたのか」

 心の問い掛けに答えるようなタイミングで声が掛けられた。ぼくは驚いて起き上がろうとするが、うう、と情けない声で呻くだけに終わってしまう。それでも、声の主を探そうと首を動かして視線をさまよわすと、扉の前に一人の少年がいた。
 目が合う。少年は感情のこもらない瞳でぼくを見ていた。

「動けるか」

 近づいてくる少年を見つめながら、ぼくは返事をすることができなかった。少年は答えないことを返答と受け取ったのか「無理だろうな」とぼそりとこぼす。そんな声を頭の隅で聞きながら、ぼくはただその少年に目を奪われていた。

 少年の年齢はぼくと同じくらいで、一六、七だろうかと見受けられた。でも、彼はぼくとは全然違った。とてもきれいな容姿をしていたのだ。少し長めの黒髪は艶めいていて、前髪の隙間から覗く瞳は少し青みを帯びたグレイ。整った顔立ちはシンメトリーを描き、それほど長身ではないけれど、すらりと伸びた手足はとてもバランスがよく、さながら人形のようだと思った。

 そんなふうに見とれていたら、彼はいつの間にか眉根を寄せていた。ぼくは不躾な視線を送っていたことに気付きさっと視線を彼から逸らす。

「べつにおまえをどうこうするつもりはない。ただ、倒れていたから拾っただけだ」

 彼はそう言うと、面倒だとでもいうようにため息を吐いた。どうやら、ぼくが彼に対して脅えていると思ったらしい。

「いや、そうじゃないんだ。なんていうか、びっくりして。……助けてくれて、ありがとう」

 本当はそのまま放っておいてほしかったのだけど。ぼくは内心でつぶやきながらも形ばかりの礼を述べた。しかし、彼はそんなことはどうでもいいというように「ああ」と小さく言っただけだった。

「……ところで、ここはどこなの?」

 ぼくはずっと気になっていたことを聞いてみる。ここは彼の家もしくは部屋なのだろう。だけど、この部屋には窓が見当たらない。もしかしたら、地下なのだろうか。地下なのだとしたら……ぼくの中に一つの心当たりが浮かぶ。できることなら、外れてほしい。

「クリプタの一画だ」

 しかし、彼の口からでたのは僕の予想通りの返答だった。
 やっぱり、ね。
 ぼくはため息を吐く。そして、ここで生きてベッドの上に寝ている自分が信じられない気分になった。よく生きていたものだ。

 クリプタ。この界隈では知らぬ人がいない場所のひとつだ。もちろん悪い意味で。クリプタの街はなにもない。寂れた店がちらほらとあるだけで、本当にないもない。人もほとんどいない。それもそのはずで、クリプタの街は地下にあるのだ。人も金もすべてが黒く染まり、犯罪と貧困で溢れかえり、地下の暗闇に染まるように闇そのものが支配している。そして、クリプタに一般人が入り込んだら、次に帰ってくるときはただの骸に成り果てていると言われている。

 だって、この街には死神がいるのだから、

 これはぼくが聞いた噂の一部だ。実際にはクリプタの噂はもっとある。魔物が棲むとか、異世界に繋がっているとか、人体実験が行われているとか、そんな信憑性など一切ないことまであり、噂は一向に絶えない。どれが真実かは定かではないが、決して安全な場所ではないことは確かだ。
 そして、この街に出入りした多くの人が消えていったのもまた事実だ。

「心配しなくても、ちゃんと生きて返す」

 不安げに思考をめぐらしていたら、彼がふとつぶやいた。ぼくは上手く聞き取れなくて、え、と聞きかえす。すると彼はもう一度同じことを言ってくれた。
 ぼくはそれに曖昧に頷きながらも、首を傾げる。一体この少年が危険な街でどんな役に立つのだろうか。どう見たって体格はぼくと同じくらいで贔屓目に見ても頼りになりそうとは言えない。それでも、彼は自分が言ったことになんの疑いも持っていないようだった。

 きみは何者なの、
 
 ぼくは喉からでかかった言葉を、しかし、すぐにしまい込んだ。聞かないほうがいい。お互いのためにも、そのほうがいい。きっと、いや、ぜったいに。ぼくはそう決めると脳内で列挙された質問の数々をしまい込んだ。

 彼も彼でぼくの事情など一切聞いてくる様子はなかった。なぜ、あんなところに倒れていたのか、雨の日に外でなにをしていたのか。聞かれなくてぼくはほっとしていた。聞かれても答える気はなかったけれど、言葉を濁すことさえ苦痛なことを聞かれたくはない。

「それじゃあ、俺は用があるから出かける」

 いつの間にか彼は扉に近づいていて、ドアノブに手をかけているところだった。ぼくはまたもや、え、と聞き返す。すると、出かけてくる、と懇切丁寧に言葉を切って言われた。頭が弱いみたいに思われてしまっただろうか。体調が悪いせいだと思ってくれていると信じたい。
 それに、出かけるという彼に、はいそうですかと言って行かせてしまうわけにもいかなかった。ぼくはまだこの家の状況をちっともつかめていないし、なにより、まだ体が動きそうないのだ。

「あの、ぼくはどうすれば、」

 我ながら情けない聞き方だと思った。けど、仕方ない。実際にぼくの今の状況は情けないのだから。

「ああ…、好きにすればいい、と言っても動けないのだったな、」

 彼はそう言うと考えるように黙ってしまう。すると突然、部屋の外に出て行ってしまった。
 置いていかれた?
 放置されたぼくの脳裏にはそんな言葉が浮かび始めたとき彼は部屋に戻ってきた。食事と薬を携えて。

「薬を飲んで、しばらくすればよくなるだろう。疲労から来る極度の筋肉痛みたいなものだろうからな」
「あ、ありがとう」
「動けるようになったら、家の中なら好きに使っていい。トイレは出て左の突き当たり。もしかしたら、しばらく帰れなくなるかもしれないけど、勝手には帰るなよ」
「え、なんで?」
「危険だからだよ」

 彼はぼくの問いかけに面倒そうに息を吐きながら言う。

「ああ、そうか。ごめん、迷惑をかけて」
「いい。俺が勝手に拾ったんだ」
「拾ったって……」
「いいから、さっさと食え。俺は出かけたいんだ。ああ、それと誰か訪ねてきても絶対に出るなよ」

 彼はぼくがなんとかして食事を食べ始めるのを見届けると、最後にもう一度「外に出るな、誰か来ても開けるな」と念を押して出かけていった。まるで、子供を心配する母親みたいだ。きっと彼は悪い奴ではない。きれいな顔立ちに似合わず不遜な物言いではあるが、クリプトの住人のなかでは善良に部類されるのではないだろうか。
 でも、さっき会ったばかりの人をそう結論付けるには早急すぎるのだろう。それに、ぼくは彼のことをなにも知らない。当然、どこに行ったかなんて知らないし、それどころか、彼の名前すら知らない。ぼくも名乗っていなかった。
 なにも知らない状況でどこだかよくわからない場所にいるのは少し不安だ。でも、知らないほうがいいことのほうが多いのも確かだ。だから、ぼくは目を閉じて耳を塞ぐ。そうすれば、いい。なにも考えたくなくてもいい気がするから。
 
しばらくすると、薬が効いてきたのか眠気が襲ってきて本当に目を閉じた。ぼくは特に逆らう理由も無く、そのままゆっくりと闇に飲まれていった。

 ぼくと彼はなにも知らないまま、さよならをする。そのはずだった。だけど、そうはいかないことをぼくはまだ知らない。この少年が、ぼくの運命を大きく左右するなんてことも。

 まだなにも知らなかった。






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