世界中何もなかったそれ以外は





   スピカ





 告白された。
 今年28歳になる男が告白された、とか言うとなんだがおかしな感じがするが、あれは、まごうことなき告白だった。好き、と言われて抱きつかれて、それから、不意に寄せられた唇は、甘い匂いがした。
 小さく震えていた子どもがいつの間に”女”になっていたのかと、衝撃を受けながら、突然の出来事と、やわらかな感触にくらりと眩暈を覚えた。
 俺は呆然とする頭で、女の顔をした幼い少女が「返事はいらないから、でも、覚えておいて」と泣き出しそうに微笑むのをただ、ただ見ていた。
 何か言わないとまずいことになると本能が告げているにも関わらず、情けないことに俺は一言も言葉を発することができなかった。







 それから3日。俺と告白してきた少女――藍(あい)は、表面上は何も変らずに、だけど、気まずさを確かに見え隠れさせながら過ごした。朝食での会話は一段と少なくて、俺は一緒に暮らし始めた当初のようだと思った。夕食も俺は気まずさに耐えかねて、わざと仕事を多く引き受けて、帰宅の時間を遅らせた。
 そして今夜、俺はその帰宅すら放棄した。
 見慣れた後輩の部屋の天井をぼんやりと見ながら、泊まるのはどれくらいぶりだろうと思う。確か最後に泊まったのは半年前に大きな仕事の打ち上げで酔いつぶれた時だった気がする。
 俺は滅多なことがない限りはどんなに夜遅くなろうとも、自宅に帰ることだけは欠かさなかった。それほどまでに俺は家に居る少女が大切だった。10年前に一緒に暮らしはじめてから、ずっと大切に、大切に、育ててきたのだ。育ててきたと言えるほどのことを俺が藍にしてあげれたかは、正直よくわからないけれど、それでも、確かにずっと寄り添ってきた。
 それなのに、

「はぁー…」

 長く重たいため息は告白されてから何度目になるだろう。どこかで何かを間違えてしまったのだろうか。俺は頭を抱える。

「人の家で落ち込まないでください。うっとうしい」

 冷ややかな声が俺の頭に振ってくる。声に反応して、のろのろと見上げるとバカにしたような目をした後輩の七瀬がいた。

「うるせー…」

 俺は先輩を敬う気など微塵もない後輩をじろりと睨みつけて言う。しかし、七瀬に堪えた様子はない。

「うるせーって…人の家に押しかけておいてなに言ってるんですか」

 堪えるどころか、文句を連ねる七瀬を俺は完全に無視する。七瀬もそれに気付いたのか諦めたように、ため息を吐いた。

「それで、いきなり泊めろなんてどうしたんすか?」
「……べつに」

 言葉を濁す俺に七瀬はじとっとした視線を送ると、決め付けるように言う。

「妹さんとケンカしたんすか?」

 一応は語尾に疑問符を付けているが、七瀬のそれは完全にそれしかないと言っていた。俺は気まずそうに視線を逸らすと「、そんなところだ」と小さく溢す。

 正確には、ケンカではないのだが一緒に住む少女のことを妹としか思ってない七瀬に、本当のところを話すわけにもいかない。いや、知っていても相談などしないだろうが。からかわれるのが関の山だ。
 また、七瀬以外の人も俺と藍の関係は兄妹だと思っているので、俺にはこのことを相談できる相手がいなかった。血の繋がっていない少女と同居しているなどと言えば、いらぬ誤解を招くだけであり、また複雑な事情を話すのも面倒であるために仕方のないことであるのだが。

「…先輩…いい年して妹とケンカってどうなんすか…」

 だから、俺は呆れ気味の七瀬の声に返す言葉などなく、ただ、黙り込むしかない。

「まぁ、いいすけど。でも、帰らなくてもいいすんか?最近、物騒だし…妹さん家で一人なんでしょう?」

 七瀬はこれ以上聞いても無駄と思ったのか、はたまたただ単純に面倒だと思ったのか…おそらく後者だろうが、ケンカの理由について詮索することはなかった。

「平気だろ、俺ん家オートロックでセキュリティはしっかりしてるし、帰りが遅くなることはよくあるからな」

 平気、だ。俺は自分に言い聞かすように言う。確かに帰りが遅くなることはよくあったし、深夜になることもままあった。それでも、14歳の女の子を一人家に置いておくのは、いつも何かしらの不安が残る。しかも、今日はあえて帰らないのだがから、胸中に渦まく気持ちは複雑だ。

「ふーん…でも、妹さんかわいそうですね」
「は?なんでだよ?」

 家に一人なことがか?と俺は一瞬思ったけれど、先ほども言ったように帰りが遅いことはよくあるし、藍は本当に小さな子どもじゃないのだ。

「だって、ケンカしたんすよね。避けられたら嫌われたとか、普通思うじゃないですか」

 それって落ち込みませんか?と言う七瀬の言葉に俺は苦虫を噛み潰したみたいな顔をする。

 そんなこと、わかっている。でも、一体どんな顔をして、どんな言葉を掛ければいいというのだ。妹のように、娘のように思ってきたのに。
 だったら、そんなふうに思えないと言ってしまえばいいのかもしれないが、そうすることで今の関係が崩れてしまうのが、俺は、どうしようもなく怖かった。
 だって10年だ。10年掛けて、築いてきたのだ。
 それなのに。俺は本当にどこでなにを間違えてしまったのだろうか。兄のように、父のようになろうと思い、やってきたのだ。そして最近やっと上手くやれているんじゃなかと思い始めていたのに、

「日高先輩?」
「へあ?」

 思考に捕らわれていた俺は七瀬の声にまぬけな返事を返してしまった。七瀬は心底呆れたような顔をする。

「先輩…本当になにをそんなに思い悩んでるんですか?妹とどんな深刻なケンカしたんすか?……まぁ、深くは聞きませんけど……さっさと仲直りするのが一番だと思いますよ」

 28歳になる男が仲直りって……俺はそれを口にする七瀬に、そして仲直りを促されている俺自身に、いい加減うんざりとした気分になる。なにをやっているんだ、俺は。
 時計はもうすぐ12時を示そうとしている。ご飯食べたかな、もう寝たかな、と俺は藍に思いを寄せる。完全に娘を心配する父親の心境である。
それ以上でも、それ以下でもない、のだ。

(はぁー…)

 本日何度目になるかわからないため息は、口にでることはなかった。自問自答を繰り返しても、答えは出ない。逃げてばかりでは堂々巡りである。

「俺、帰るわ」

 そう言って俺はすくっと立ち上がる。七瀬は驚いたように俺を見上げてから、首を傾げた。

「え、いいんすか?」
「ああ、おまえの言うようにさっさと仲直りするほうがいいと思うしな」

 その仲直りがいい方向へ転がるといいのだが。俺は内心で思いながらも、そのように願うしかできないので口にはしない。
 それでも、今のままではいつか気付いたら関係が修復不可能なほど壊れていた、なんてことになりかねないので、ちゃんと話す必要があるのだろう。
 そんな俺の気持ちなど知らない七瀬は自分の助言が利いたのだろうと思っているのか、どこか得意げな顔をして、一応の礼を述べる俺を見送る。

「じゃあ、先輩気をつけて」
「ああ、ありがとな」
「いえいえ、ま、がんばってください」

 がんばって、その言葉が俺にはひどく重たく圧し掛かるようだった。七瀬はそんなことには微塵も気付かないらしく、へらり笑う。俺はいらぬ応援を適当に交わしながら、七瀬ののん気さを羨ましく思った。

 がんばれ、って一体なにをどうがんばればいいのだろうか。




@スピッツ「スピカ」





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