可愛い子猫の鳴き声じゃぼくは引き止められない。それが例え子犬だって小鳥だって赤ん坊だって変わりはしない。ぼくは何事もなかったかのように無関心に通り過ぎる。
冷たい人間ね、と誰かが云って。
僕はその評価の正しさにただ肯いて。
きみは優しいね、さぁ、その子猫を優しい腕で抱き上げればいいよ、とにこりと笑って。ついでに遠くの国の飢えて死にそうな子どもを助けにいけばいい、とにこりと笑って云ってあげるのだ。
ぼくは冷たくて非道な人間。なにを基準に冷たいだの非道だの云うのかは正直わからないけれど、大多数の見解がそうなのでぼくは異論を唱える理由もないので、うんそうだと思っておくことにしている。
それなのに、最近。ぼくをやさしい人ね、と云う人――いやもしかしらた、アレは人間じゃないのかもしれないけれど、この際そこは置いておく――がいる。
ぼくはなんともいえない気分になって、はぁ、と曖昧に返事をするのだが、その人――面倒なので人と定義してこうと思う――は微笑んでやさしい人、と再びつぶやく。
ぼくはその微笑を見つめながら、きっとその微笑こそがやさしいというべきなのだろうなとぼんやりと考えて、考えてしまった自分がおかしくて、小さく笑った。
「おまえ、いつになったら出てくの?」
素っ気無くできるだけ素っ気無くぼくが告げれば彼女はにこりと笑う。
「きみが本当に出てけと思ったときに」
「…………」
彼女はにこりと笑う。ぼくはどんな言葉も無意味な気がして黙り込む。沈黙。そして、ため息。これが何度目の問い掛けになるのかなんてもう忘れてしまった。100回目かもしれないし、もしかしたら、初めてだったかもしれない。同じ場面を繰り返しているだけかもしれない。
彼女の名前はイチジクという。九と書いて、イチジクと読む。とある地域にしかない珍しい名字だ。そして、ぼくの名前は九遼平(いちじくりょうへい)という。べつに彼女とぼくは親類でもなんでもない。一ヶ月前に初めて会ったのだ。
一ヶ月前に初めて彼女に会った――いや正確には拾ったというべきかもしれない。彼女はぼくのアパートの前で眠っていたのだ――とき、名前はと訊ねたぼくに彼女はしばらく逡巡した後で、イチジクと名乗った。漢数字の九と書いてイチジク、だと。当然ぼくは驚いたわけだが、驚きを隠して下の名前はと訊ねれば(ぼくはこの時昔の知り合いなのかもしれないと思っていたから)、そんなものはないときっぱりと言い切られてしまった。まったくもってふざけている。
そんな出会いからかれこれ1ヶ月。無一文だという彼女を泊めてから、ずるずると奇妙な同居生活は続いている。親がそれなりに金持ちのため金銭面に余裕があり、彼女もいない、ぼくにとってイチジクの存在はそんなに邪魔ではなかった。でも、邪魔ではないという理由で素性のわからない女と1ヶ月の同居とはぼくも大概頭がおかしいのかもしれない。
しかし、そろそろ出て行ってほしいと思うのだが、彼女にその気はないらしい。そして、ぼくも本気で心底出て行ってほしいと思っているのかはよくわからない。
ぼくはぼんやりと彼女のほうを見つめる。黙り込んでしまったぼくに興味を失ったように今はテレビを見ている。つまらなそうな顔をして、ニュースを見ている。
「――いち、」
「なぁに?」
気づいたら無意識に名前を呼んでいた。淡い茶色の髪がふわりと揺れて、イチジクの顔がこちらを向く。茶を帯びた大きな瞳がぼくを見つめる。それは先ほどまでテレビを見ていた顔とは打って変わって、嬉しそうである。
「…え、あ、」
ただ名前を呼んだだけのぼくは言いたいことを瞬時に思いつけなくて言葉をさまよわす。イチジクが不思議そうに首を傾げる。
「…………夕飯、なに食べる?」
ぼくは結局当たり障りないことを言った。今日は冷蔵庫が空っぽだからカップラーメンでいいかと思っていたのに。
「……ん?どうしたの、そんなこと聞くなんて?」
夕飯はいつもぼくが作っていた。イチジクはひどく不器用で包丁なんて握らせてはいけないと一緒に住んで3日目で学んだ。そして、作る側に権利があるとぼくはぼくの好きなように料理を作ってきた。イチジクはそれに文句を言ったことなどないし、料理を残したこともなかった。それに、一度食べたいものは?と気まぐれに聞いたときには「ニンジン」と答えられたのでそれ以来そういったことを聞いたことはなかった。
「……いや、たまには、」
「そっか、リョウヘイはやさしいね、」
イチジクはにこりと笑う。ぼくはひっそり眉根をひそめた。イチジクはぼくを事ある毎にやさしいと称する。ぼくはそれがたまらなく嫌だった。
そんなんじゃない、と否定することも面倒でぼくははぁ、と息を漏らす。すると、イチジクは微笑を浮かべて。
「いちじくが、食べたいな、」
「……は?」
ぼくはイチジクの言っている意味がわからなくてまぬけな声を出す。そして、笑っている彼女の名前を思い浮かべて、ぼくの名字を思い出して、それからやっと果物のいちじくに辿り着いた。
「……そんなものはない、」
当然ながらそんなものはこの家に存在しない。いや正確にはカップラーメンくらいしか食べ物はないのだけれど。
「ううー…、それじゃあ、買いに行こう」
よし、とばかりにイチジクは立ち上がる。
「……はい?」
「いちじくを買いに行こう!」
「はぁ?」
ぼくは戸惑いを滲ませて声を上げる。イチジクはなぜか妙に張り切っていて出掛ける準備を始めてしまう。
「え、ちょっと待てよ、は?なんで、そんなイチジク食べたいの?」
イチジク、イチジク、って、あのタネがいっぱいで、酸っぱくて、え、あんまおいしい記憶とかない、あれだよな?
ぼくは混乱してしまい、彼女の言っているイチジクが本当に果物のイチジクなのか不安になってきた。ぼくは普段と違い張り切るイチジクに戸惑い、そして、ぼくも普段と違いひどくオロオロとしていた。
そんなぼくにイチジクは真剣な表情を浮かべた。
「……うん、イチジク食べてみたいんだ。だって、リョウヘイとわたしの名前の食べ物だよ。きっと奇跡みたいな味がするよね」
にこり、と笑う。
イチジクはどうやらイチジクを食べたことがないらしい。ぼくはもうわけがわからくなって。自分は冷静さが取り柄だと思っていたのに、今やその欠片もない。
どうして、こんなにも、イチジクに振り回されるんだ。
「……リョウヘイ?」
イチジクがぼくを見る。どこか不安そうにぼくを見ている。
「……イチジク、きみの下の名前は?」
ぼくは尋ねる。イチジクは驚いて目を見張ったが、すぐさま、にこり、と笑った。
「そんなものはないよ」
彼女はきれいに笑う。ぼくは夢を見ているような気分になって、はぁ、と息を吐き出す。もし、夢ならばこれは悪夢だろうか。
いや、まぁ、夢じゃなくても最悪だけど、
ぼくは微笑するイチジクから視線を外して、ジャケットを手に取ってから玄関に向かう。嬉しそうに着いて来るイチジクを一瞥してから、ぼくは靴を履いた。
とりあえず、イチジクにイチジクは奇跡みたいな味はしないとわからせなければならない。ぼくはあの果物が好きではないのだから。
090701
九(いちじく)って名字は実在するらしい。ぐぐるさんに聞いただけなので確証はない。どうやら、一文字で書く「九」ってことらしい。果物は関係ないらしい。