「かおるぅー」
「かおるじゃなくて、かおる兄だろ?」
「かおうー」

 キャッキャッとはしゃぐ赤ん坊は俺の言うことなどちっとも聞いてくれない。妹のように可愛がっている藍には、ぜひとも”兄”と慕ってほしいのだが、先ほどからいくら言っても兄の敬称を付けてくれる気配はない。

「か、お、る、に、い、だろ?」
「かおるぅーかおうー」
「だからー…」

 必死に教えようとする俺の気持ちなど知らない藍は楽しそうに名前を連呼する。俺はくじけそうになりながらも、半ば意地になって何度も同じことを繰り返す。すると、そんな俺を笑う声が響く。

「あははっ、薫、もう諦めろ」

 ばかにするような笑い声に俺はムッとして、その声の主をじとっと睨みつける。

「うるさいですよ、一馬さん」
「はは、もういいじゃねぇか、ちゃんと名前呼ばれてるんだし」
「よくないですよ!」

 声を張り上げる俺を一馬さんはいっそう面白そうに見る。俺は憤慨しながらも、再びあどけない顔をして笑っている藍に向き直って、根気よく”兄”と呼んでもらえるように努める。

「薫くん、そんな意地にならなくても、大丈夫よ」

 すると、そんな俺にくすくすと笑いながら優しい声が降ってくる。

「あ、美咲さん…」
「藍はまだ長い言葉が上手く言えないのよ、だから、もう少し大きくなったらちゃんと呼べるようになるわよ」
「でも…」

 美咲さんの慰めという助言に俺は渋る。美咲さんの言葉はもっともだと思う。それでも、俺はどうしても、この小さな女の子に、兄と呼んで欲しかった。この子と本当の兄妹になりたい、と思った。

「薫くん」

 そんな俺の心情を見透かしたように、優しい声と一緒に美咲さんが俺の側に近寄る。そして、母親の存在に気付いて嬉しそうに笑う藍を抱き上げてから、俺にそっと渡してくれた。俺は何度も抱かせてもらった小さな命を、少しだけ緊張して受け取る。

「かおうー」

 俺の腕に治まった藍は俺の名前をへたくそに呼んで、にこりと笑った。

「薫くん、大丈夫よ。あなたはもうちゃんとこの子のお兄ちゃんだもの」

 だって藍がこんなに懐いているのよ、美咲さんはそう言って微笑んだ。俺はきゅうっと胸が締め付けられる思いに駆られて、泣き出しそうになった。だけど、藍の手前、泣くのはかっこ悪いと思ったのでぐっと堪える。

「かおうー…?」

 でも、藍は何かを察したようで、小さな手がぺちペちと俺の頬に触れた。

(ああ、)

「 あ、い 」

 お兄ちゃんだぞ、そう告げた言葉はぎゅっと壊れないようにだけどしっかり抱きしめた藍のぬくもりに消えていった。
 俺はきらきらひかる小さな命に、途方もないくらいの幸福を感じた。
この子を、俺の全身全霊を掛けてこの命を守ってあげたい。藍の身に降りそそぐ不幸はぜんぶ俺が代わりに受けてやってもいい。ぜったいに幸せになるんだ、してあげるんだ。

「、あい、美咲さん、一馬さん、俺、しあわせ、です」
「たぶん、いま、世界で、いちばん、しあわせです」

 俺は我ながらなんて恥ずかしいのだろうと思いながらも、今伝えなくてはいけないような気がして、ありのままを言葉にする。
 美咲さんはそんな俺を藍ごとそっと抱きしめてくれて、それを見ていた一馬さんも負けじと藍と俺と美咲さんごとぎゅーっと抱きしめた。俺はちょっと苦しいと思いながら、藍が潰れないようにだけは気を配って、ばかみたいな抱擁を目一杯に受けた。

「薫!おまえが幸せなのは当然なんだよ!なんたって俺らの家族なんだからな!」

 一馬さんが俺よりももっと恥ずかしいことを叫ぶ。美咲さんは楽しそうに微笑んで、「ええ、そうね」と言う。藍もキャッキャッと楽しそうに笑って「だーっ!」と意味もわからずに叫ぶ。
 俺も可笑しくて楽しくて、ただもう幸福だなぁと笑った。


藍、あい、愛、


こうふくのこども






081221
まさか兄貴じゃなくて彼氏になっちゃうとはな!
薫少年は考えもしてないだろう幸せだったころの話でした。