「なぁ、なんか弾け」
居心地の悪い沈黙を破ったのは気だるそうな男の声だった。俺は声を発した男――ハルキへと視線を移すと、なにかを押し込めたような暗い瞳とかち合った。
はぁ、と俺は内心で深いため息を吐く。まったく面倒なやつだ。人を呼び出しおいて、一人で勝手に酒を飲みはじめて(いや、呼び出した時点で飲んでいたようだが)、とくになにを話すわけでもなくひたすら酒を煽っているかと思ったら、挙句の果てにこの発言。本当に面倒なやつだ。
「……なにがいいんだ?」
しかし、俺の口から出たのは文句ではなかった。こうやって甘やかすのがいけないのかもしれないと思いながらも、お人好しの俺には今にも死にそうな顔をしたハルキを放っておくことはできない。次の日にはなんともない顔をしていると経験上理解していたとしても。
「ねこふんじゃった」
淡々と告げられたハルキのリクエストに俺は頬を軽く引き攣らせた。
「おまえ…、もう少しさぁ…」
まとも曲言えよ、と言おうとしてやめた。じとっと睨みつけてくるハルキが告げる言葉が十分予測できたからだ。
ねこふんじゃったばかにすんじゃねぇよ
「……はいはい」
俺は諦めて部屋の真ん中に置かれているグランドピアノの前に腰掛けた。ハルキの家のリビングにはこの高そうなグランドピアノしか置かれていない。せめてソファくら買えと以前から言っているのだが、音の妨げになると一蹴されてしまい、ハルキの家に遊びにくる度に堅いフローリングの上に直接座るという切ない思いをさせられている。
そんな俺の切ない気持ちを察したのか軽く触れた鍵盤からはポロンとどこか切ない音が響いた。
タラランランラ、と防音設備の整った部屋にどこかまぬけなメロディーが響く。ハルキが俺にリクエストする曲はいつも童謡や簡単な曲ばかりで、この高いグランドピアノには不釣合いに思える。でも、音楽バカのハルキにとってはどんな曲も意味があると言って、大事に思っているのでそんなことを口にすれば怒られるのだけど。
そんなことを考えながらも、俺は久々に触れる鍵盤の感触に少しだけ昂揚した気分を覚え、同時に指がちっとも思うとおりに動いてくれないことに苦笑をもらした。
ハルキは奏でるピアノの音を聞いているのかいないのかわからない様子で、空になったグラスに焼酎を注いでいる。それでも心なしか間接照明に照らされた表情が落ち着いたものになってきたように思えた。
タンタン、と軽快な音を鳴らしてねこふんじゃったを弾き終わる。スローテンポにアレンジして弾いたとはいえ1分少々の曲だ。すぐに終わってしまう。別の曲を弾くかなあと逡巡しながらポーンと意味もなく音を鳴らすと、ハルキが可笑しそうに口を開いた。
「ハハ、おまえまた下手くそになったなあ」
「……あのなぁ、ろくに弾いてないんだからあたり前だろ」
じと目で睨みながら抗議すればハルキはなにが可笑しいのかまた笑い声を上げる。
このやろう弾けと言ったのはおまえだろう!
そう思ったが内心に留めておいた。下手くそなのは自覚があるし、それに"ハルキ"に反論しても意味がない。なんたってこいつは俺の数百倍上手いのだ。
「……ぼし」
ハルキのピアノの旋律を思い出していたら、その本人がボソっとなにか呟く。俺は上手く聞き取れなくて「え?」と聞き返す。
「キラキラ星」
今度ははっきりとした声で告げてきたので、しっかりと聞き取れた。だが今度は意味がわからない。いや、意味ならわかる。ほら早く、とでも言うように顎でピアノを示すハルキを見れば、つまり、弾けと言っているのだ。
「……俺の下手くそで聞き苦しい演奏なんて聴くくらいなら自分で弾けば?」
「あぁ?嫌だよ」
「あぁ?って…ガラ悪いなぁ。一流ピアニストのイメージが台無しだ」
「うるせぇよ。いいからさっさと弾け!」
「…っいて!」
ますますガラの悪い調子で声を上げるとハルキは椅子から垂れ下がった俺の足を思い切り蹴飛ばしてきた。
「まったく、相変わらず足癖が悪いやつだ…」
呆れたように呟くと、ハンと鼻で笑われた。ハルキにとって手は大事な商売道具なので、その分昔から足がすぐ出る。俺は蹴られたふくらはぎを軽く擦ったあと諦めたようにピアノと向かい合うと指先を鍵盤に滑らせた。
ほんと俺ってハルキに甘い、と自分に呆れながら。
「俺、ケイタのピアノ好きだぜ」
そうハルキに言われたのはいつだっただろうか。確か俺がピアノを完全に諦める少し前だったはずだ。才能がない自覚はあったのに認めるのが悔しくて自棄になっていた頃だ。
俺とハルキは幼稚園からの仲でなにをするにも一緒に居た。俺が昔ピアノをやっていた母の勧めでピアノを始めたときもハルキは一緒に習いはじめた。俺たちはピアノが楽しくて楽しくてしょうがなくて、どちらが早く一曲弾けるようになるか競い合って、お互いに切磋琢磨しながら成長していった。
でも、楽しいだけじゃ、努力だけじゃどうにもならないこともある。それはコンクールに出ると明確に現れてしまった。賞を貰うのはいつもハルキばかりで、俺は否が応にも"才能"の差を見せつけられた。
――ハルキくんは天才ね
天才、その言葉はハルキを遠ざけていくようだった。一緒にピアノを始めたのにハルキがどんどん離れていくことが、悔しくて、悲しかった。
「俺、もうピアノやめようかなぁ…」
中3で進路を決めなくてはいけない時期だった。俺は思わずハルキにそう言っていた。
「……ふーん、まぁ、好きにすれば?」
ハルキは一瞬驚いた顔をしたがすぐに落ち着きを取り戻して、何気ない調子で言った。
「冷たいなぁ」
「俺がやさしくしたらピアノ続けんの?」
訊ねてきたハルキの視線は痛いくらいにきついもので、俺は一瞬その厳しさにたじろいだ。でも、その厳しさの意味をすぐに理解した。
ハルキは"才能"だけがあったわけじゃない。誰より努力をしていたし、なによりピアノが好きだった。だから、ピアノに関して甘い言葉を言ったりはしない。ハルキらしいなと思うと同時に俺は自分が甘えていたこに気づいた。
「……いや、やめるよ!俺才能ないし!」
自分の中で揺らいでいた気持ちをきっぱりと口に出してみたら、案外大したことなかった。もうずっと心の奥では決まっていたのかもしれない。
「ま、確かにケイタに才能はねぇな」
「おま、いくらなんでもひどすぎ」
「いやいや時には真実を突きつけてやらないとな。でも…」
言葉を止めたハルキはいつになく真摯な顔をして俺を見つめた。そして、にかりといきなり笑顔になって。
――俺、ケイタのピアノ好きだぜ。
その言葉は不思議と俺のなかにストンと落ちてきた。嫌味でなく本当にそう思ってくれているのが伝わったからかもしれない。
俺はハルキのピアノに嫉妬したり、いっそ憎たらしく思ったりしたこともあった。でも、俺はハルキのピアノが好きだった。才能だとか天才だとかそんなつまらない言葉に関係なく、ただ単純に好きだった。
やさしくて、あたたかくて、うつくしくて、魂が震える。
そんなピアノを弾くハルキが俺のピアノを好きだと言ってくれた。それはどんな賞をとるよりも嬉しいと思えた。
思えばあの一言で本当に俺はピアノを諦めることができたのかもしれない。そして今は唯一好きだと言ってくれたやつのためだけにピアノを弾いている。まぁ、ハルキはあの言葉のあと、下手くそだけどな、と余計な言葉を付けたのだけど。
「あーやべぇ、ねみぃ…」
下手くそと称したピアノに耳を傾けていたハルキがくわぁっと欠伸をした。俺は演奏の手を止めて、色々な気持ちを込めてため息を吐く。
「……おまえなぁ……」
なんだよ?と視線のみで問うてくるハルキは本当に眠いらしくまぶたが重たそうである。文句は山ほどあったが今言ったところでどうせ朝には覚えてないのがオチだろうとぐっと飲み込む。
「……いや、なんでもない。寝るならちゃんとベッド行って寝ろ」
フローリングの上で寝たりしたら明日の朝背中が半端なく痛くなるぞ。あれは何度経験してもいいものじゃない。やっぱりソファくらい買えよなハルキ。
「あー…めんどくせぇ…つーか、なんで勝手に弾くのやめてんの」
「なんでって、眠いって言ったからだろ」
なぜ半眼で睨まれて俺が悪いみたいに言われなくちゃいけない。
「ねむいっつったけど、やめろとは言ってねーだろ!いいから弾けよ!」
完全に酔っ払っているハルキの言葉にうんざりとする。しかも、いつの間にか床に転がる酒瓶は空っぽになっているし。飲みすぎだバカ。
でも、家に訪ねたときよりもずっと楽しそうなハルキに少しだけ安堵する。これで明日の朝はいつも通りに戻っているだろう。
――俺にはピアノしかないんだ
血を吐くように告げられる言葉はいつも痛々しかった。ハルキはいつか天才ピアニストという重たい称号に押しつぶされてしまうんじゃないか。俺はいつもその言葉を聞くたびに思う。
こいつはただ誰よりもピアノが好きなだけなのに、
ハルキにピアノしかないなんてことはない。ピアノを捨てれば違うものが見つかるだろう。俺がそうだったように。特別なことじゃなくても人は生きていける。無理をしてまでピアノを弾く必要なんてない。賞賛を浴びなくてもピアノを弾くことはできる。
そんな気休めの言葉ならいくらでも浮かぶが、そんなことをハルキに言っても仕方のないことだ。ハルキは今あるものを手放したいなどと望んでいない。ただ、それでも月並みな言葉だが、いわゆる天才の苦悩があるのだろう。ピアノが好きだから、誰よりも好きだから、きっと苦しいのだろう。
「ったく、俺のピアノ子守唄にする気かよ」
眠そうなハルキにわざと悪態を吐いてやる。するとハルキがふっと笑みを溢した。ついに頭ぶっ飛んだか?と眉根を寄せるが、そんな俺の反応を気にもせずに楽しそうに口を開いてきた。
「ふふ、子守唄には上等すぎるよなあ」
「は?」
それ嫌味か?と言うよりも早くハルキは言葉を続けた。
「やさしくて、あったかくて、でも、下手くそで、俺の耳にはぴったり」
「……なにそれ、褒めてんの?貶してんの?」
冷たい声で訊ねながらも俺の顔はにやけていた。酔っ払いの戯言だとしてもすごく嬉しかった。
俺は自分でも単純だなと感じながらも上機嫌で鍵盤に指を滑らせはじめる。曲目は「星に願いを」だ。その選曲がおかしかったのかハルキは笑みを深めた。
「俺、ケイタのピアノすきだ、」
小さな呟きはピアノの音にまぎれて聞き逃しそうなほどだったが、俺の耳はちゃんと聞き取ってしまい、指がぶれて演奏が止まる。耳を疑うようにハルキの方を見れば、すっかり寝るモードに突入していた。
「背中痛いって文句言ってもしらねぇから…」
恥ずかしさを誤魔化すように独り言をこぼした俺は再びピアノを弾き始める。できるだけやさしく。子守唄になるように。
俺はこれからもハルキのためにピアノを弾くだろう。下手くそな演奏で天才ピアニストの演奏が守られるなら、安いものである。だって、俺はだれよりもハルキのピアノが好きなのだから。
バカ面で眠るハルキを見ながら、あとで毛布くらいは掛けてやろうと思った。
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