なにもほしくない。ぬくもりも、やさしさも、救いも、希望も。冷たい雨に打たれながら、ぼくはただひたすら限りなく無になることを考えていた。
 だけど、ほんとうは、










   コントロール・エラー










「おやまあ……今日は随分ときれいな格好してるな」

 扉が開くと同時に半笑いの声でそう言われた。ぼくは返答する気力もなくて、ただ目前の人物の顔へと視線を向ける。その人は無精ヒゲを生やして、伸ばしっぱなしで長くなった髪を後ろで一つにくくっており、疲れた目の下には隈が窺えた。服装は上下ともスエットで、口には煙草を咥えていた。お世辞にも綺麗とは言いがたい身形である。その男はぼくの視線を受け止めると、なにが可笑しいのかくっと押し殺した笑いをこぼした。

「まぁ、とりあえず上がって風呂に入りなさい」

 子供に言い聞かすような口調にぼくはゆっくりと肯くと、水で重たくなった靴をもたもたと脱ぎ始める。上手く脱げそうもなくて、履いていた靴下と一緒に強引に脱いだ。
 さて、この濡れた足をどこに置くべきか、そう思い逡巡していると男が「あとで拭いておけばいい」と投げやりに言ってきたので、遠慮なくフローリングに水の跡を残しながらバスルームへと向かった。

 バスルームの浴槽にはたっぷりとお湯がはられていた。まるで、ぼくが濡れ鼠になって訪れることを予期していたようで、複雑な気持ちになった。だが、とにかく早く濡れた身体を洗い流したかったので気にしないことにした。
 シャワーの温かい粒を浴びながら髪と身体を洗った。染みついた雨の匂いと、地面に突き飛ばされたとき髪に付いた泥の嫌な手触りが気になったのでぼくはことさら丁寧に洗った。強く擦ったせいで地面に倒れたときに出来たかすり傷が少しだけ痛んだ。
 丁寧にシャワーを浴びたあと、そっと湯船に浸かった。冷えた手足にはその温度は熱いくらいに感じて背中がざわりとしたが、そのうちにお湯と体温がなじんできて強張っていた身体をリラックスさせることができた。

「タオルと着替え置いとくから」

 湯船につかり少し経ったころ、摺り硝子の扉ごしに声を掛けられた。この家は出迎えた男しか住んでいないので、当然その男の声だ。着ていた制服はびちゃびちゃのどろどろで着れたものじゃなかったので、ぼくは男に感謝の言葉を伝えた。すると、男は可笑しそうに笑った。

「ははっ、着替えるのはいつものことだろ?」
「……そうですね」
「まあ、今日もよろしく」
「……はい」

 今日はどんな服なのだろうか。小さな返事を受けて男が去っていく音を聞きながら、ぼくは湯船に頭のてっぺんまで沈めた。










「ああ、似合ってる似合ってる」

 風呂から上がったぼくに男は軽い口調でそう告げると、ソファーに座るように目で促してきた。ロングソファーと一人用のソファがあり、ぼくはいつも座る一人用にゆっくりと腰掛けた。

「はい、ミルクティー」
「ありがとうございます」

 差し出されたマグカップを受け取る。湯気の上るそれに慎重に口を付けるとほんのりとしたやさしい甘さが口に広がってきて、自然と身体から力が抜けた。

「今日の服、ちょっとどうやって着るか戸惑いました」
「ああ、そっか、ごめんね」
「いえ、いいんですけど、これで合ってますか?」
「うん、合ってると思うよ」
「そうですか、よかった」

 にこりと控えめに微笑むと男――嘉島(カシマ)さん少し自嘲気味な笑みを返してきた。ぼくはその表情を見ていたくなくて、マグカップへと視線を落とす。
 ぼくは今女物の服を着て、ロングストレートのウィッグを付けている。つまり――女装をしているわけだ。しかも、今日の服はフリルやレースのたくさん施された、いわゆるロリータ服と呼ばれるものだった。
 
「こういう服もお好きなんですか?」
「んー…」

 嘉島さんは生返事を返しながら、ぼくの座るソファからは少し離れた場所にあるデスクの椅子に腰掛けた。そのまま、そこに置いてあった煙草を咥えて火を付けると、ゆっくり紫煙を吐き出して、苦笑交じりに言葉を紡ぐ。

「いやあ、似合うかなあって」
「……それで?」
 
 どうでしたか?と言外に含めて問う。先ほど褒め言葉を貰ったが、現在の曖昧な態度から察するにそれが本心ではなかったのだろう。

「うん?いや、似合ってるよ本当に。でも……やっぱ、もっと落ち着いた感じの方が好きかな」

 後半の言葉はぼくから視線を逸らした独り言のような呟きだった。以前の服装を思い出しているのかもしれないし、違うかもしれない。ぼくは特に返す言葉も思いつかず適温になったミルクティーを口に含んだ。










 女装をすることには不思議とはじめから抵抗を感じなかった。もともと外見というものに一切興味がなかったせいかもしれない。いや、それどころかぼくは自分に一切の興味がないのかもしれない。
 それでも、ぼくはぼくであり続けるしかない。興味があろうとなかろうと、死のうが生きようが、ぼくはぼくだ。
 その事実に呼吸の仕方が分からなくなるくらいの苦しさを覚える。死にたい――いや、消えたいと思うこともあるし、その逆に強く存在したいと願うこともある。
 
 女装をすると、ぼくは比較的簡単に呼吸をすることができる。守られているような気がする。

(いや、ちがう)

 嘉島さんが選んだ服を着ると、なぜか安心した。支配されているような気がするのだ。ぼくをぼくと知らしめるすべてを超越して、ぼくは支配される。その少し狂気染みた錯覚がぼくをどうしようもなく安心させる。
 消えてしまえそうなほどに。










「嘉島さん」
「ん?」

 入れてもらったミルクティーが底をついた頃、ぼくはデスクに置いてあるパソコンに向き合っている嘉島さんに声を掛けた。声に反応してゆっくりとぼくの方へと少し疲れた顔を向けてくる。

「今日、泊まってもいいですか?」
「ん?んー……」

 彼は考えるように言葉を濁しながら、パソコンへと視線を送った。

「あの、仕事の邪魔になるようなら帰ります」

 嘉島さんはなにか物書きを生業にしているらしい。らしい、というのは直接聞いたわけではないからだ。ただ、何回もこの家に足を運ぶようになって、家に置かれるたくさんの本と、常にパソコンと向き合っている姿と、いつ訊ねても家に居ることを総合的に考えた結果のぼくの推測である。

「いや、まぁ、どっちにしろ煮詰まってるから」

 苦笑を浮かべながら嘉島さんはまた煙草に火を灯した。どうやら本当に煮詰まっているらしい。煙草のペースがいつもより早い。

「……いえ、だったら尚更ぼくがいたら迷惑では?」
「んー…一人でいると余計に煮詰まるし……いいよ、泊まっていきな」
「……ありがとうございます」
「いえいえ」

 軽い返事を返しながら嘉島さんは煙を吐いた。その煙りの苦い匂いがぼくのもとに届いたような気がしたが、実際は彼の側に置かれた空気清浄機が煙を吸い込んでしまったのできっと気のせいだったのだろう。










 嘉島さんはぼくに女装させる。その代わりぼくは彼の家にいつでも逃げ込める。これが二人が交わした取引だ。
 それ以外には二人の間にはなにも存在しない。最初こそぼくは犯されると思ったし、それでもいいと思った。でも、嘉島さんはぼくに女装させるだけだった。性的な意図を持って触れてきたことなど一度もなかったし、写真を撮られこともなかったし、もちろんセックスをしたこともない。
 ただ、お風呂に入れてくれて、ご飯を食べさせてくれて、泊まらせてくれて、温かい布団をくれて、そして、女装をさせる。それだけだ。

 ぼくの女装はとても様になっていた。まだ二次成長の途中のぼくは男と言い切るには頼りない姿だったし、ずっとコンプレクスだった女顔にはヒラヒラのスカートも花柄のワンピースも白のブラウスもよく似合った。
 嘉島さんの選ぶ服はどれも可愛らしいものばかりだった。今日のように、たまにジャンルの違うものを用意することもあるが――以前に着た赤の大人びたドレスは我ながらひどく滑稽だったと思う――基本的に控えめででもかわいらしくふんわりとした服が多かった。
 実際、そういった類の服がぼくには一番似合っていたとも思う。上手く着れているか鏡で確かめるたびにぼくは本当は女の子かもしれないと一瞬思ってしまうくらいに。










 静かだなと思った。嘉島さんは煙草の吸殻を増やしながらパソコンに向き合って時おりなにか打ち込んではすぐさま消して、考え込んで、とそんなことをずっと繰り返していた。
 ぼくはその姿を横目に見ながらただぼーっとしていた。いつもならば嘉島さんの家にある本を読み始めている頃なんだけれど、今日はなぜかそんな気分になれなかった。
 なんだか、ひどく疲れていた。雨に打たれたせいだろうか。それとも、べつの理由だろうか。
 
(静かだな、なんの音もしない)

 本当は微かな雨音と嘉島さんが打ち込むキーボドの音がしていた。そして、ずっとずっと止まない耳鳴りの音。
 それでも、ぼくは静かだなと思った。
 なにもないと思った。

 じっと嘉島さんの横顔を見つめる。疲れた顔に無精ヒゲ、一つに括られているズボラな長髪。清潔とは言いがたい容姿だが、それでも、よく見るとその造形はそこそこ整っているのがわかる。実際にヒゲを剃って髪を切りそろえた彼は綺麗な顔をしていた。でも、それを見たのは数回程度で、大体においてこんなボロボロの姿をしている。
 もったいない、とその数回程度のときに口にしたことがあるが、彼は「べつにだれも見ないし」とどうでも良さそうに言っていた。

(かしまさん)

 声には出さずにくちびるだけを動かして名前をなぞる。特に意味などなかったが、それを何度か繰り返す。

(かしまさん) 
(かしまさん)
(かしま、さん、)

 パソコンに向かう彼はぼくの声無き呼びかけに応えることはなかった。わずかに険しい横顔がひどく遠いものに思えて、少しだけ悲しみを抱く。
 だけど、すぐさまその感情を打ち消す。そうしないと押し込めている何かが一斉に溢れてしまいそうだったから。

 (……かしまさん)

 性懲りも無くもう一度だけ名前をなぞった。ゆっくりと、渦まく感情も一緒に吐き出してしまうように。
 すると、一向にこちらを向かなかった顔が動いた。視線が絡んで、驚いて息を息を詰めると彼は首を傾げてきた。

「ん?どうかした?」
「……ッ、あ、いえ……」

 心臓がぎゅうっと音を立てて軋んだような気がした。喉が張り付いたように上手く言葉が発せずに詰まらせてしまう。

(どうして、振り向いたりしたんですか!)

 思わずそう口走りそうになった。でも、ぼくの喉は本当に張り付いてしまったようで、声を発することはなく不自然な沈黙だけが漂う。

「……んー…今日はいつにも増しておとなしいね」

 苦笑交じりの言葉にぼくは慌ててなにか言おうとしたが、それよりも先に彼が再び口を開いた。

「具合が悪いなら、休んでいいよ?」

 そう言いながら、泊めてくれるときにぼくがいつも使わせてもらっている部屋に視線を送った。

「いえ、あの……」

 気を使わせてしまっていると思った。やめてほしかった、やさしくするのは。でも、嘉島さんはいつもぼくにやさしかった。心地いい距離感を保ちながらも、ぼくの望むものを望むように与えてくれた。
 嘉島さんは本当にやさしくて、やさしくて、やさしくて。
 ぼくはなんだか泣きそうになった。

「……あの、やっぱり、帰りますっ」

 そういい捨てるやいなやぼくは立ち上がって、逃げるように嘉島さんの家を飛び出した。










 外はすっかり暗くなっていたが、まだ雨が降っていた。当然ながら傘も差さずに出てきたため、雫はぼくの体を濡らしていく。数時間前も同じように雨に濡れていたのを思い出し、今日はよく濡れる日だなと自重気味に笑う。
 飛び出す前に嘉島さんの引き止めるような声が聞こえたが、彼が追いかけてくる気配はなかった。その事実に安堵して、だけど、少しだけさみしいと思う。しかし、同時にさみしいなどと思ってしまう自分がひどく疎ましかった。
 とぼとぼと意味もなく歩き回る。雨で冷やされた頭は少しずつ冷静さを取り戻して、居た堪れない気分になる。
 ぼくはなにをしてるんだろう、なにがしたいんだろうか。
 襲いくる後悔に視界が滲みそうになる。すると、一瞬視界が滲んだようにぼやけた。でも、ぼくは泣いておらず、それは急に周りが明るくなったからだった。明かりの元を辿ろうと上を覗けばそこには街灯が寂しげに立っていた。まぶしさに俯くと明かりに照らされた地面になにか見えてきた。ぼんやりと眺めていると、それは女の子の形になった。

(……ああ、女装のまま出てきちゃったんだっけ)

 地面に浮かぶ女の子は街灯の下の水溜りに映りこんだぼく自身だった。ずぶ濡れの女の子。これは一体だれなのだろうか。本当にぼくだろうか。問いかけてみても雨が水溜りを揺らすだけだ。
 ぼくは泣き叫びたい気持ちになったが、それを打ち消すようにずぶ濡れの生き物を踏み潰した。
何度も何度も踏み潰した。










「死にたいって言わないんだな」

 ある日、嘉島さんはそう口にした。その日の嘉島さんは珍しくきっちりとした黒のスーツを着ていて、ぼくも黒のロングヘアのウィックをつけて黒のワンピースを着ていて、まるで葬式みたいだなと思った。
 どんな脈絡でそんなことを話し出したのかは思い出せない――もしかしたら唐突に切り出されたのかもしれない――が、とにかくその会話だけは今もはっきりと覚えている。

「死にたいって顔をしながら、でも一回も死にたいって言わないんだなあと思って」
「……死にたいって言ったらどうなるんですか?」
「さぁ?どうにもならないんじゃないかなあ……あ、でも、本気の本気で死にたいって口にするなら……」

 ――心臓を奪ってあげるよ

 嘉島さんは冗談のようにそう言ったが瞳はぼくを射抜くように真剣だった。そのときどんな気持ちだったのかうまく思い出せないし、なんて言葉を返したのかも覚えていない。けれど、そのときぼく左胸の奥のほうがちくりと痛んだような気がして――ああ、これが心臓かな――と、まるではじめて心臓の存在を知ったような気がした。










(死にたい)

 ずぶ濡れのぼくは心の中で呟く。

(死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい)

 それはまるで禁じられていた祈りのようだと思った。ひたすらに自分の死を祈る。消えたいと思うよりもそれはずっと生々しくて痛々しくてぼくを真っ二つにするようだった。
 身体はすっかり冷えているのに妙に熱を感じた。雨に濡れた頬が熱くて、握りしめた手のひらが熱くて、沸騰しそうな頭が熱くて。
 ――そして、彼に奪われそこなった心臓がひどく熱くて。
 ずっとずっと押し込めていた感情がとめどなく溢れていく。どろどろの汚い感情。それがぼくの本質だ。汚くて、醜くて、どんなかわいい格好で着飾っても偽っても隠すことのできない、どろどろの生き物。
 水溜りには未だにずぶ濡れの少女がいた。これが本当にぼくであるならば、もういっそ本当に女の子になりたかった。二次成長を迎えるぼくはそのうち女装なんて似合わなくなる。いくら着飾っても意味のないただの男になってしまう。成長を止めようといくら苦心してもそれが叶うことはない。あの人がぼくを必要としてくれる時間は限られている。所詮はつかの間の居場所でしかない。
 
(ぼくの居場所なんてないのだ)

 どこにもない。そんな考えはただの甘えでしかない。あの人のやさしさに甘えて、ぼくは限りない無になったような錯覚を起こして、勝手に安心などという押し付けがましい感情を抱いて。女装という取引に安堵すらして。
 だけど、本当は無などとは程遠い。あの人に関われば関わるほどぼくという自己が肥大してしまう。女装に抵抗がないのはただ嘉島さんに必要とされたいからだ。そんなことないといくら否定してみても、ぼくの中には隠しようのない意思がある。

 ぼくはもういっそ嘉島さんに抱かれてしまいたいとすら思うのだ。










「おやまあ……随分ときれいな格好してるな」

 扉が開くと同時に苦笑を含んだ声でそう言われた。ぼくは震えそうになる唇をかみ締めて、目前の人物の顔へと強い視線を向ける。その人は無精ヒゲを生やして、伸ばしっぱなしで長くなった髪を後ろで一つにくくっており、疲れた目の下には隈が窺えた。服装は上下ともスエットで、口には煙草を咥えていた。お世辞にも綺麗とは言いがたい身形である。その男はぼくの視線を受け止めると、やわらかく微笑する。

「……嘉島さん、ぼく死にたいんです」
「そうか……まぁ、とりあえず上がって風呂に入りなさい」

 子供に言い聞かすような口調にぼくはゆっくりと肯いた。






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お題:支配/心臓/煙草/水たまり