何コールか後に響く「ただいま電話に出れません」の聞きなれた声。一体何回聞いたのだろうか。「要件のある方は発信音の後に……」という常套句を聞き終わる前にぼくはいつものように電話を切った。きみの着信履歴にはきっと嫌がらせみたいにぼくの名前ばかりが残っているのだろう。それでも、繋がらない、ことはない。電源が切れていることも、ましてや着信拒否されることもない。
 もういっそ掛けるのをやめようと何度も思った。しかし、そのたびにきみの顔が思い浮かぶ。それは愛しいとか恋しいとか会いたいとか色っぽい理由ではなく、ぼくの前であんな泣きそうな顔をしたくせに、ぼくのことを忘れたりする日がいつか来るかと思うと非常にむかつくからだ。散々、散々、振り回しておいてこのやろう。という気持ちなのである。
 それを愛しいとか恋しいとか会いたいとか云うんだろ、と思わなくもないが、もしそうだったならば、嫌がらせ染みた電話ではなくもっと効果的な方法をとるだろう。話べたなきみのために電話でなくメールを送ってみるとか、ピーという音の後になにかやさしい、きみが電話に出たくなるようなメッセージを残してみるとか、もういっそ家に押し掛けてみるとか。他にもきっと有効な方法はあるだろう。
 でも、ぼくがするのは執拗な電話だけだ。一日三回、朝昼晩にきみにコールする。時々、寝坊して朝のコールを忘れたり、忙しくて昼のコールができなかったりすることはあるが、最低でも一日一回は必ず電話を掛ける。
 だけど、きみが電話に出たことは一度もない。
 きみの声を最後に聞いてからそろそろ三ヶ月が経とうとしている。
 ぼくはそろそろ賭けにでるべきかと考えている。

「そろそろ潮時だと思う?」
「……にゃあ!」

 まぁこが肯定らしき声を上げたので、ぼくは賭けを実行に移すことにした。まぁこは嬉しそうにぼくの手からマグロの刺身を食っていた。





 賭け実行から一日目。変化なし。まぁこが刺身の味を覚えてしまった!困る。





 賭け実行から二日目。知らないアドレスから「なんで電話掛けてこないの?」っていうメールが来た。色々考えたけど、可能性にすぎないから無視した。まぁこが安いキャットフードを不満そうに食っている。むかついたので撫でくりまわしてやったら、腹出してごろーんって寝ころんだ。もっと撫でろってことか。かわいいなこのやろう。しかし、刺身はやらんぞ、と固く決意する。





 賭け実行三日目。夜。きみからメールが来た。



from:少年A
To:xxx@aa.co.jp
Sub:(non title)
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(´・ω・`)



 イラッとした。



To:少年A
Sub: Re:
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メアド拒否したから



 返信した。まぁこがさみしそうに鳴いていたからぎゅうって抱き寄せてあげた。眠れなくて朝まで起きていたけど、携帯は鳴らなかった。





 賭け実行から四日目。

「大概ぼくも意地っ張りだよなあ」
「にゃー」
「これは負けってことなのかなあ」
「にゃあ?」
「あー!くそったれ!」
「にゃ!」
 
 きみに電話をする理由がきみへの優しさだとか愛だとかいっそそういった類のものだったらよかったのに。恋を終らすみたいに庭に埋めて墓標を立てて、他のだれかのやさしさに甘えて、きみの隙間を埋めるために恋をして、キスをしてセックスをして一緒に眠ってしまえば、いずれ墓標すら風化するのに。
 しかし、ぼくはきみと恋をしていたわけではない。だから、キスもセックスも一緒に眠ることもなかった。ただ、ほんのわずかのやさしさを分け合っていただけ。だから、きみを繋ぎ止めるのがぼくじゃなくてもいい。
いいのに。それでも、きみの泣きそうな顔が忘れられない。





 11時53分。きみから電話が掛ってきた。
 
 浅い眠りに落ちていたぼくは最初なんの音かわからずにただぼんやりとしていた。そのうち、それが振動音だと気づくとハッと飛び起きて、暗闇の中で光る物体に思いきり手を伸ばした。この瞬間を逃したら、なにかが終わってしまうと本気で思った。
 寝ぼけた体はうまく動かず、テーブルの上の何かをガシャンと床に落下させながらも、なんとか携帯を手にした。ディスプレイにはきみの名前が光っている。これが最後の希望の光だろうかとくだらないことを考えたが、早く出なくてはとその考えてを振り払う。通話ボタンを押そうとするが、思いのほか緊張していて手が震えてしまう。ぼくは落ち着けと深呼吸をしながら、通話ボタンを押した。

「……、もしもし?」

 緊張して声が震えた。情けなくて、なんだか泣きそうな気分になる。電話の向こう側がひどく遠く感じる。これは3ヶ月の距離だろうか。それとも、もっと別のずっと喉につっかかっている思いや、胸の奥の悲しみに似たよどみのせいだろうか。
 
「もしもし?」

 電話の向こうはかすかな息遣いさえも聞こえず、ひたすら無音だった。もしかして、寝ぼけていて電話が掛ってきたような気がしただけで、本当はどこにも繋がっていないのでないか。ぼくは恐る恐る電話を耳から離してみると、そこには確かにきみと通話中だと示してある。ぼくはきみの声を逃すまいと再び耳に電話を押しつけるが、相変わらず無音のままである。
 しばらく経っても無音は続き、ぼくはいまこの状態すべてが夢なのか?とそんなことまで考えはじめてしまう。まさかと思いながらも、ぼくはそっと頬を抓る。
 ……痛たかった。
 つまり、寝ぼけていたわけでも夢でもない。きみが息を潜めているってことだ。ぼくはなんだかとても腹立たしい気持になってきた。

「もしもしどちらさまですか」
『…………』

 あえて冷たい口調で問いかける。そうでもしないと、あらゆる感情があふれかえって、泣き出してきみを罵ってしまいそうだった。たとえその行いがどんなに理不尽であっても。

「黙ってちゃわかりませんよ」

 さらに強めの声を発すると、わずかに空気が振動するのが伝わった。きみが動揺しているのか、泣きそうになっているのか、怒っているのか、電話を切ろうとしているのか。
 携帯を握る手が汗でじんわりしている。もうだんだんと自分がなにをしたかったのかわからなくなる。いっそこの電話をぼくから切ってしまえばいいような気さえしてくる。
 すると、ごく小さな、本当にわずかな声が響いた。

『………ひどい』

 それは聞き逃してしまいそうなほどの声だったが、ぼくの耳にはしっかりと届いた。第一声にしてはあんまりな言葉。だけど、ぼくはなぜか安堵した。とてもきみらしい利己的な一言。

「ひどいのはどっちだ」
『…………ひどい』
「まだ言うか」
『…………だって、ひどい』

 なにが、だって、だ。きみがなにを持ってして「ひどい」という三文字を発しているのか。心当たりはありすぎるような気もするが、その心当たりをぜんぶまとめてもぼくに対してひどいと言えるほど、きみはひどくないと言うのか。ぼくは脳内でブツブツと文句を並べながらも口元が緩んでしまうのを抑えられなかった。耳元から感じるきみの気配がばかみたいに嬉しい。

「……元気?」

 ぼくは浮かれてどうしようもないことを口走りそうになるのを抑えて、普通のことを聞いてみる。 

『…………半分くらい』

 微妙な回答に思わず笑ってしまう。

「じゃあ、もう半分は?」
『…………死んでる』
「……っ生きろよ、」

 たわいない冗談のような会話なのに、思わず真摯な声を出してしまった。ぼくがきみに電話し続けた要因のひとつには生きているか確かめたかったというのもある気がした。そんな思いを見透かされるのが恥ずかしくてぼくは慌てて軽い口調で言葉を足した。

「…って、生きてるな」
『…………うん、生きてる』

 沈黙。
 沈黙。
 沈黙。

 なにか言うべきことがあったような気がするのに。もっと声を聞いて言葉を交わしたいのに。まずいことを言ってこの通信が切れてしまったらと焦ると言葉がもつれて出てこない。きみに対して久しく使ってなかった気遣いをしている。きみに気を遣ったところで、うまく作用したことなど一度もないのに。
 そんなふうに躊躇っていると、きみの声がそっと沈黙を破った。

『…………なにか言って…』

 その声はひどくたよりなくて、ぼくの涙腺をくすぐる。

「そっちこそ……」

 ぼくの声も大概たよりなくて、最後まで言葉を繋げなかった。乱れた息遣いが聞こえる。
 それは、ぼくのものなのか、きみのものなのか。
 その息遣いの合間にきみが小さくつぶやく。

『…………ご…ご、めんね…』
 
 その声は微かに震えており、きみの不安や悲しみが僅かな空気の振動から伝わってくるようだった。
 ぼくはそのたった一言できみのすべてを許してしまいたくなった。いや、許す許さないという問題ではない。はじめから、きみに憤ってなどないのだ。ただ、ぼくの中のきみの存在を否定してほしくなかった。そして、できることならきみの中にぼくという存在を置いておいてほしかった。

『…………ごめ、ん…ごめん、ね…』

 謝り続けるきみの声がどんどん湿り気を帯びてきて、たまらない気持になる。あのときの泣きそうだった顔が思い浮かぶ。あのときもっとちゃんと話を聞いてあげれば、あのときそっと抱きしめてあげれば、あとのきずっと側にいてあげれば。謝罪を聞きながら謝りたかったのは自分の方ではないのかと思う。きっと、ぼくはぼくの過ちを許されたかっただけ。

『……ごめ、んなさい…ごめん…ごめ…』
「…っもういい、もういいから!」

 いつまでも止まない謝罪のことばを遮る。思わず強い口調になってしまい、きみが息を飲むのを感じた。

「ちが、ちがうんだ。ちがうんだよ。もう謝る必要なんてない。怒ってないし、責めてもない……」

 だから、

『……会いたい、』
「…っ!」
 
 ぼくの思いがきみに伝わってしまったのかと思うようなタイミングだった。一瞬息がつまって、熱くて苦しくてわけのわからない感情がぼくの中を通り過ぎる。その感情を反芻するよに強く目をつむり、ゆっくりと息を吐き出せば、ポタリと滴がおちた。
 苦しみや辛さを独り押し込めて逃げたきみが憎らしくて腹立たしくて仕方なかった。ずるくて卑怯だと思った。何度も見捨ててしまおう放り出してしまおうと思った。だけどそうしなかったのは、きみを傷つけたくないとか、きみの助けになりたいとか、そんな表面上の理由も確かにあっけれど、あの泣きそうな顔をみてしまってから恋よりも性質の悪い執着の理由はたったひとつ。

 ――ぼくにすくわれるきみがみたかった

 本当にずるくて卑怯なのはぼくの方だ。もっときみの助けになる方法があると知りながらも、ただただ繋がらない電話に掛け続けることを選んだのはきみからぼくを求めてほしかったからだ。

『……会いたいっ、会いたい…』

 電話越しから伝わるきみの押し殺した泣き声はひどく心地よくて、ぼくを静かに満たしていった。満たされた心があふれるかのように、ぼくの頬を透明な液体が濡らしていく。それは止めどなく、そして、ひっそりとしていた。
 ぼくはきみに対しての浅ましさもひそやかな涙もなにひとつ悟られないように細心の注意を払いながら言葉を紡いだ。

「……ぼくも、会いたいよ」

 ずっとずっと会いたかったんだ。

 きみが泣き止んだら、会う約束をしよう。気が変わってしまったり、きみが怖気づいて逃げてしまわないように、なるべく早く。なんなら今日でもいい。たぶん、会ってしまえば、わずかなぎこちなさを残しながらも、冗談を言って笑い合って、"いつも通り"になるだろう。そうすれば、ぎこちなさなど忘れてしまえるし、きみの後ろめたさもぼくの浅ましさもなかったことになる。
 
「なぁ、いい加減泣きやんでよ」
『……っ、ない、てない…』
「泣いてるじゃん」
『……ないて、ないから…』
「……ふーん、まぁいいや。ところで、いつなら会える?今日でもいいけど」
『…っきょ、はだめ、』
「なんで?」
『いろいろ、ひどいから…』
「いまさら……じゃあ、明後日の昼は?」
『…………うん』
「なんでそんなに返事遅いの?」
『……べつにおそくない』
「逃げんなよ」
『…………にげない…』
「だから返事遅いし。まぁ、逃げてもいいけど」

 逃げてもまた捕まえるから。だからどこまでも逃げて、いっそ一人ぼっちになって、ぼくだけを思いだせばいい。そんなどうしよもないことを思う。すると、にゃあ、といつの間に起きていたのかまぁこがぼくの考えを咎めるように鳴いた。ぼくはひっそり笑みを浮かべると、すり寄ってきたまぁこを膝の上に抱き上げた。

「まぁこも会いたがってる」

 にゃーとまぁこが鳴く。その声が聞こえたのかきみがくすりと笑う気配がした。どうやら泣き止んだようで安堵して、だけどほんの少しだけがっかりした。
 念には念を押して何度も明後日の約束確かめてから、一時のお別れを言ってぼくらは電話を切った。日付はすっかり変わってしまっていて、賭け実行から五日目になっていた。明日からはもう繋がらない電話を掛けなくてもいいのだ。いや、でも不安だから明後日の約束が果たされるまでは掛けることにしよう。きみが迷惑そうな、でも嬉しそうな声を聞かせてくれればいい。ぼくはにやける顔を隠すようにまぁこをぎゅうっと抱きしめた。その暖かな体温に高ぶった神経が少し落ち着き、眠気が襲ってくる。
 
 ――ああ、今度はちゃんと泣き顔がみたいなあ

 ぼくはきみのことを思いながら眠りについた。






110919