美しい白銀の世界
まるでぜんぶ奪われていくようだと思った
ふゆそうび
昨晩から降り続いた雪により外は真っ白に染まり、昨日までの景色とはまったく変わり果てていた。今は晴れている空から日差しが雪に降りそそぎキラキラと光っている様子はともてきれいだった。
その景色を窓際から見ていた那智(なち)ははしゃいだ声で「真綿みたいで暖かそうだ」と笑う。そうしてしばらく外を眺めていたかと思ったら、我慢できないとばかりにジャケットを掴み取って転げるように家へと飛び出していった。
(子どもかよ)
ぼくはその姿に呆れ顔を浮かべた。でも、すぐに那智の後を追うために上着を羽織って外に出た。
だが、外に出たものの那智の姿は見つからなくて、視線をさまよわす。すると突然、雪原からガバッと那智が現れた。
「つめてーッ!」
あたりまえだろう。ぼくは苦笑する。那智はなにがおかしいのか大爆笑して、懲りずに雪原を犬のように駆けずりまわる。
「あきとー!雪合戦しようぜー!」
そう叫ばれるやいなや、雪玉がぼくの横を掠める。雪玉が飛んできた方向を見れば、すでにたくさん作られた雪玉を抱え込む那智の姿があった。
どうやら強制参加らしい。ぼくははぁと諦めたようにため息をつく。その間も雪玉が飛んでくるが、距離が遠いのでなかなか当たらない。しかし、雪原に入る覚悟を決めたぼくが歩き始めた瞬間。
――バシッ!
顔面にクリティカルヒットした。ぼくは冷たさに顔を顰める。雪玉は重力にしたがってズルリと顔から落ちていくが、眼鏡の間に雪が挟まってしまった。その姿がおかしかったらしく那智はまた大爆笑する。ぼくは冷たくてうっとおしくて眼鏡を外して服の裾で拭うと、再び眼鏡を装着した。そして、急いで雪玉を堅く堅く作り笑い転げる那智に向かって投げつけた。
――バシッ!
顔面にクリティカルヒット!ぼくは自らのコントロールの良さを内心で自画自賛してにやりと笑う。顔に雪をつけた那智は怒ったようで雪を振り払ったあと、がむしゃらに雪玉を投げてくる。
「てめ!よけんじゃねぇ!」
「いやいや避けてないから」
ぼくは先ほどから微塵も動いてない。ただ、怒りにまかせた雪玉が勝手にあらぬ方向に飛んでいくだけだ。
冷静さを失ったら勝てる戦いも勝てないってものさ。いつの間にかぼくは本気モードになっていてそんなことを考える。
作り置きしておいた雪玉が尽きたのか、コントロールの悪い雪玉は一旦止んだ。その隙ぼくもに雪玉を3個作成して、渾身の1個をきゅっと握りしめると未だに雪玉作りに専念している那智に向かって振りかぶった。
――バシッ!
雪玉を当てられたことにハッとして那智が顔を上げたのを狙って、ぼくは残りの2個を立て続けに投げつけた。
バシ、バシ、と顔面にダブルパンチだ。
「…ッてめ!ふざけんな!卑怯だぞ!」
「べつに、卑怯じゃないと思うけど?頭脳派なだけさ」
「むかつくッ!」
罵声と一緒に雪玉が飛んでくる。だが、また見当違いの方向に落下した。フフン、とぼくが小馬鹿にするように笑うと、意地になった那智はぼくの方へと近づいてくる。
接近戦とは一体どちらが卑怯なのか。ぼくはそう思いながら、迫ってくる那智と距離を取るために後ずさる。
「まて、こら!逃げんな!」
「いやいや、普通逃げるから」
「ッくそ!」
那智は足を取る雪に対してか、逃げるぼくに対してわからない悪態をつき(恐らくは後者だろう)、やけくそになったらしく抱えていた雪玉を放りなげると、ぼくの方へと突進してきた。
ぼくはしばらく逃げていたが、べつに逃げる必要がないような気がして歩を緩める。すると、ぼくが疲れたものと思ったらしい那智が隙ありとばかりに全力ダッシュをかけた。
――ドンッ!
腰にタックルされたぼくは那智と一緒に雪原に倒れこむ。雪のクッションは万能で痛みはちっともなかったし、上着のおかげで冷たさもそれほど感じなかった。
「……へへ、ざまーみろ」
ぼくの腰に抱きついた那智が顔をあげて、してやったという表情で言ってきた。
「……雪合戦じゃなかったのかよ?」
「いいんだよ、なんでも」
「ああ、そう」
ぼくは苦笑する。だが、那智はちっとも気にしてないようで、ぼくの腰から離れると隣りに寝転んだ。
「あー疲れた」
「まぁ、あれだけはしゃげば疲れるだろうな」
「ふん、……あー冷めたくてうまいー」
「おい、こらこら」
声に反応して寝転ぶ那智に目を向けると雪を口にしていた。ぼくがやんわりと咎めると、那智は首を傾げて。
「なに?食っちゃまずいの?私有地だから?」
と、見当違いなことを言ってきた。
「……違うよ。雪って汚いんだよ。もとは雨と一緒なんだからな」
「ええぇ、こんな白いのに?」
「白くても空気中のホコリとかいっぱい混ざっているんだ」
「ふーん……」
手にした雪を眺めながら那智は興味なさそうな生返事をした。そして、パクリと再び雪を口に含んだ。
「おいこら」
人の話を聞いていたのか。と少しきつめの声を出すと、那智はにかっと笑った。
「んー、カキ氷のシロップが欲しいな」
「…………」
もう好きにしてくれ。殺しても死ななそうな那智だから、雪を食べたところでなんともないだろう。ぼくは注意するのを諦めると、またパクパクと雪を食べている那智から視線を移して空を仰いだ。
空は青く美しかった。ただ思いのほか眩しかった太陽に目を細めて、そして、目を閉じた。
なんの音もしない。
雪がすべての音を吸収してしまったようだ。まるで世界中でひとりぼっちのような錯覚に陥る。
そして、このままぼくも消えてしまうような気がした。
消えていけばいい、このまま消えてしまえればいいのに。
そう願っても、目を開ければ先ほどとなんら変わりない美しい空が広がっている。真っ白な世界に埋もれたところで、この身は疎ましいほどに確かに存在していた。それどころか、白に埋め尽くされた分だけぼくの汚れが浮き彫りになるようだった。
こういうのを正しく汚点とでも言うのだろうか。
自嘲気味な笑みが自然とこぼれでた。すると突然、体に重みが圧し掛かってきた。
「…っおわ!?」
驚いて声をあげる。体の上には少し不機嫌そうな顔の那智が乗っていた。
「……おまえ、またろくでもないこと考えてただろ」
「え?」
探りを入れるように円らな瞳がじっと見つめてくる。いや睨みつけていると言ったほうがいいだろうか。黒曜石のように美しい瞳に射抜かれて、ぼくは困ったように笑った。
「……はぁ、かなわないなぁ」
「なにがだよ、しけた面してんじゃねぇ、よ!」
那智はそう言いながらぼくの顔面に大量の雪を押し付けた。その冷たさに慌てて雪を払うぼくに那智は面白がってさらに雪を被せる。
「こら!もうやめろって、うわっ!ちょ、ゲホッ、」
やめてもらおうと口を開いたが最後、ぼくの口には雪が入り込んできた。那智は冷たくてうまいと言っていたが、残念ながらぼくの口には合いそうになかった。ホコリっぽい味がするだけだ。
(あ、そうか。雪だって本当はきれいじゃないんだ)
雪のまずさにぼくはさっき自分が言ったことを思い出す。見た目の美しさに惑わされて、大事なことを見失いそうになっていたのかもしれない。那智が言ったように、本当にろくでもない。
ふふ、とぼくは馬鹿らしくなって笑う。
「なに笑ってんだよ」
「さぁ?」
「む、か、つ、く、!」
「う、わ!」
また那智は雪を被せてくる。さすがに顔面が霜焼けになりそうで、ぼくは本気で抵抗するが、上に乗られた状態では抵抗らしい抵抗でもできない。仕方ないので、勢いをつけて那智を乗せたままガバッと起き上がった。
「お、わ!」
「……形勢逆転かな?」
「…ッチ」
起き上がったぼくはそのまま那智を雪に押し倒した。さっきとは景色が逆転して見下ろす形になっている。那智は悔しそうに睨みつけてくるが、対格差はぼくのほうがあるのでこうなってしまうとまた逆転するのは難しい。
「……はやくしろよ」
悔しさを滲ませた声で那智がつぶやく。どうやら仕返しに雪を被せられると思っているらしい。ぼくは雪を回避できればよかったので特にそんなつもりはなかったのだが、那智の覚悟したような声になにもしないのは礼儀に反するような、つまらないような気がしてきた。
「それじゃあ、遠慮なく」
ぼくは雪を両手いっぱいに抱え込む。すると、那智はきゅっと目をつよく瞑った。
その刹那。
(キスしたいな、)
ぼくはそんな不埒なことを思わず考えてしまった。そして、その思考は一瞬でぼくの細胞までもを支配する。
そうなってしまうともう取り返しなどつかなくて、理性というささやかな抵抗など無意味だ。ぼくは抱え込んだ雪をそっと放ると、かさついたくちびるを見つめた。
そして、ゆっくりと那智との距離を縮めていく。
美しいきみが真っ白な世界に奪われないように、ぼくの汚れをあげよう、
そんなどうしようもなく気障なことを考えて、そして、くちびるは触れ、
――ガンッ!
あわなかった。
白銀の世界に盛大な音が響いた。いや実際にはそれほど響いていなかかたのかもしれないが、ぼくの頭にはとてつもない衝撃音だった。
「…ッ痛ってー!」
「…ッつぅ…」
ぼくと那智は揃っておでこを押さえ込む。なにが起こったかは説明せずともわかるだろう。キスをしようとした不埒なぼくのおでこと、なんの前触れもなく起き上がった那智のおでこがぶつかったのである。
(なんなんだこれは、神様の制裁か?)
おでこの痛みに呻きながらぼくはそんなことを考える。もしそうだとしたら、那智にとっては随分なとばっちりである。(いや、キスを回避できたので幸運だったのか?)
「……なんで急に起き上がったりしたのさ」
理不尽だと思いながらもぼくは低めの声で問う。キスをしそこねたという意味もあり、腹立ちは大きかった。
「うっせぇ、暁人がなかなか雪ふっかけないから尻が冷たくてしょうがなかったんだよ!」
「え?……ああ、」
確かに着ていた服には融けた雪が染み込んでいて冷たさを感じた。上着もすっかり濡れそぼっていて、このままでは風邪を引きそうである。
「そろそろ中に戻ろうか」
「……あ、あー、」
冷たいと言っておきながら那智の回答ははっきりしない。なにかと思えば未練たっぷりな視線を白い世界に送っている。
「ふふ、心配しなくても雪はそう簡単に融けたりしないよ。それに、どうせまたすぐに降るさ」
「なっ、べつに、オレは、」
図星を差されたらしい那智は照れたようで、ズンズンと家に向かって歩きだす。ぼくは笑いながらその姿を追いかける。追いついて隣りに並ぶと、那智の表情はまだ少し不機嫌を残していた。
「帰ったらあったかいココアを入れてあげるよ」
機嫌を直してほしくてそう言えば単純な那智の表情はすぐにほどける。そして、ぼくの表情も那智につられてほどけていく。
ぼくはすっかり冷えてしまった手を那智のそれと重ね合わせる。那智は無言で睨みつけてきたが、振り払われることはなかった。体は芯まで冷え切ってしまっていたが、心はとても温かかった。
家に入る前に振り向き見た雪原はぼくらに踏み荒らされて美しさを失っていた。
だけど、ぼくはそのほうがずっといいと思った。
ずっと美しいと思った。
091218
※ふゆそうび:冬薔薇