ぐちゃぐちゃにして、








    バスルーム殺人事件







 

 まとまらない思考がからだの中でぐるぐるしている。気持ち悪くて小さく呻き声を上げて、寝返りを打つ。すると、閉じたまぶたの上から眩しさを感じて薄く目を開けた。強い日差しが窓から入り込んでおり、だれかカーテンを閉めて、と一人きりの部屋で思った。
 少しでも涼しさを求めて、フローリングに直接寝転がってからどれくらい経過したのだろうか。日陰で寝ていたはずなのに日差しがからだを侵食し始めているから、それなりに時間が経っているのだろう。寝た覚えはないが、気づかぬうちに浅い眠りについていたのかもしれない。
 
 ――あつい、

 色々と暗い思考に捕らわれていたような気がしたが、今はただそれひとつが頭から指先までを支配している。喉も渇いた。だれか水、と懇願するがこの部屋には怠惰に寝転がるぼくしかいないのだ。
 仕方なくのろのろと起き上がり冷蔵庫へと這っていった。2メートルという長い道のりを経て、冷蔵庫に辿り着いたぼくは座り込んだ状態のまま、まず一番下にある冷凍庫を開けておもむろに顔を突っ込んだ。

 ――すずしい、

 こういうことすると今は外出している同居人がすぐさま怒鳴り声を上げるのだが、鬼の居ぬ間にというやつだ。存分に冷気を浴びまくってやる。
 しかし、程なくすると、そんなぼくのささやかな悪さを咎めるようにピーピーという電子音が響いた。扉が開いていますよ、という冷蔵庫からのお知らせ音である。
 ぼくは名残惜しいような気がしたが、救世主のアイスが溶けてしまってはいけないので冷凍室の扉を閉めると、緩慢な動作で立ち上がって一番上の冷蔵室からミネラルウォーターを取り出した。

 ――ごくごく

 勢いよく飲み込んだそれは飢えたからだに染み込むようだった。まさに生き返るって感じだ。しかしその感覚はすぐにどこかに行ってしまう。少し動いただけなのに、背中に汗がつたっていく。脇もじめっとして不快だ。取り込んだ水分が即効毛穴という毛穴から噴出しているようだ。
 まるで、欠陥品だ。どこに返品申し立てに行けばいいのだ、とくだらないことを考えながら、ペットボトルに残っていた水を流し込んだ。

 ――あつい、
 ――あつい、あつい、
 ――あつい、あつい、あつい、

 どろどろに溶けた脳みそはそればかり繰り返す。ぼくは涼しいところはないか、とふらふら家の中を彷徨った。











「……み、ふみ、史也!」

 沈み込む意識の間から声を聞き取った。うるさいと思いながらも、しつこく連呼される言葉が自分の名前だと気づいて、意識を上昇させはじめる。
 うぅん、と唸るような声を上げて重たいまぶたをゆっくりと持ち上げるが、眩しさに耐えられずにすぐに目を閉じてしまう。

「おいこら、起きろ」
「うー……」

 拒否の気持ちを込めて声を上げると、肩を揺すられた。でも、ぼんやりとした頭は睡眠を求めていて起きる気にはなれず、肩に触れる手を避けるように寝返りを打とうとして、しかし、思いのほか狭い空間に身を捩るだけになってしまった。
 すると、その身動きで起きたくないという意図を悟ってくれたのか手が離れていく。よかった、とぼくは再び眠りに身を預ける。
 その時、キュッキュッという音が響き、続いてシャーという水の音が響いた。何事だろうか?と重たい頭で考えたが、寝ぼけていたぼくはそれがなにを意味するのか理解できなかった。
 そして――、

「うわッ!?」

 気づいた時には冷たい水がぶっかけられていた。

「え!?ちょ、ちょっと!なに!?や、やめ、つめ、冷たい!」

 いきなり冷たいシャワーをかけられ、慌てて飛び起きたぼくは抗議の声を上げる。しかし、水が止むことがなく、シャワーを掛けている相手を睨みつけようと顔を上げたら、顔面にノズルを向けられた。

「あう、わ…ッ」

 抗議の声をあげようにも開いた口に水が入ってまともな言葉にならない。手で必死に防ごうとするが、ささやかな抵抗にしかならず、容赦なく水が全身を濡らしていく。
 そして、びしょびしょという描写がぴったりなくらい濡れそぼった頃にやっと水攻撃は止んだ。水を含んだ服が重たくて不快でしょうがない。ぼくはシャワーノズルを持つ男を睨みつけた。

「……なにすんの」
「目ぇ覚めたか?」

 男はぼくの問いには答えず、逆にそう訪ねて来た。その態度は一切悪びれる様子がなく、むしろ楽しそうですらあった。

「……さめた、けど、」
「けど、なんだよ」
「……つめたい、」
「ああ、そりゃ悪かった」

 くくっ、と喉で笑いながら男は謝る。ぼくはなんで水掛けて起こすんだ!と少しだけ怒りを抱いたが、目の前の男が楽しそうなので、その気持ちはすぐに昇華されてしまった。

「おかえり、せーと」
「あ?…ああ、ただいま」
「ぎゅってしていい?」
「いや、そりゃダメだろ」

 怒りは引いたが、このままやられっぱなしもつまらないと考えて、おかえりのハグを提案したら、あっさり却下されてしまった。無理矢理抱きついてもよかったが、それを見越した征斗に「抱きついたら夕飯抜き」と釘を刺されてしまったので大人しくしておいた。

「つか、おまえ、なんでこんなとこで寝てたんだ?」

 征斗が思い出したように聞いてきた。こんなとこ、とは、つまりバスルームの浴槽のことだ。

「え?……あ、うん、暑くて」

 端的に答えると首を傾げられてしまった。暑くて涼しいところはないかなって探して、肌に触れるつるっとした感触が冷たくて気持ちよくて、それで、ここで寝たのだ。
 そう説明すると、征斗はますます首を傾げる。意味がわからないと顔にありありと書いてある。しかし、ぼくはありのままを口にしたのでこれ以上の説明など出てきたりしない。

「いや、つーか、エアコンつけろよ」

 エアコンとはアレだ。涼しい風が出てくる文明の機器だ、なんて、説明しなくてもみんな知っているだろう。ぼくだってもちろん知っているし、この家にそのエアコンがあることだって知っている。しかし。

「エアコン嫌いだもん」
「……あーそー」

 めんどくさそうな征斗の声。言いたいことがあるらしく、口をもごもごと動かしていたが、結局「まぁ、いいや」と言って自己完結してしまった。

「くしゅッ」

 寒いと思ったらくしゃみが出た。そういえばびしょ濡れだったんだっけ、と思い出す。いくら真夏でも冷水を掛けられればそりゃ体も冷えるのだ。征斗もぼくのくしゃみでその事実を思い出したらしく脱衣所からバスタオルを持ってきて、ぼくの頭に放り投げた。

「ほら、それで拭け」
「……ん」

 とりあえず、わしゃわしゃと髪を拭くが、まずは濡れた服を脱ぐべきかと思い至る。しかし、濡れて肌に張り付いた服は脱ぎにくくてしょうがない。

「……脱げない」
「ああ?」

 縋るような小さな声で呟けば、ガラの悪い返事をされた。水をぶっかけた張本人なのだから、少しくらい申し訳無さそうにしてほしい。
 だが、征斗はそんなぼくの心情などどこ吹く風とばかりに、バスルームの壁に寄りかかって紫煙を吐き出しはじめた。

 ――むかつく

 ぼくはエアコンも嫌いだけど煙草も嫌いなのだ。
 でも、それを征斗に告げたことはないので彼は知るよしもない。だけど、暑いと言ってガンガンに冷房を効かせて、部屋の中で匂いが付いたりヤニで壁が黄色くなるを気にもせず煙草を吸って。ぼくはそれらが嫌いでしょうがない。
 それでも、それを口にして、一番大事なものを失いたくはなかった。

「おい、なにぼーっとしてんだよ。さっさと服脱げよ」

 タオルで頭と顔を拭いたきり身動きを停止していたら、そう言われた。

 ――ぼーっとしてるのは征斗のほうじゃないか。なんでわざわざここで煙草を吸うんだよ。服脱げないって言ったのに手伝ってくれる気がないなら、放っておけばいいんだ。なんで、こんなふうに側にいるんだよ。

 頭から冷水を掛けられて体は冷えたはずなのに、ぼくの思考はどろどろに溶けたままだ。むしろ、よりひどくなる一方な気さえする。

 ――きもちわるい、いやだ、たすけて、

「ねぇ、せーと、」

 縋るような思いで、意図して甘ったるい声で呼びかけてみるが、征斗は返事もせずに気だるそうな視線だけを寄こしてくるだけだ。
 ぼくは突然悔しいような悲しいような気分に駆られて、なんだか無性に泣きたくなった。瞳が熱くなったような気がして、ゆっくりとまばたきをしてみるが、タオルで拭った頬が再び濡れることはなかった。
 なぜだか征斗の顔を見ていられなくて、黙り込んで顔を伏せた。湿った空間に沈黙が落ちる。

「おい、どうした?」

 呼びかけたきり俯いたぼくにさすがの征斗も不審に思ったのか僅かに堅い声を発した。でも、ぼくは反応を返せなかった。
 いや、違う。ぼくはわざと無反応を装ったのだ。征斗が少しでも動揺する様を見たくて。

 ――いや、それもちがう、ほんとうは、もっと、あさましい、

「おい、なんなんだよ?ついに頭いかれたか?」

 いや、とっくにいかれてるのか。征斗は侮蔑を込めて吐き出すと寄りかかっていた壁から背中を離した。いかれてると言われてもぼくは一向に構わない。普段から行動がおかしいことを自覚している。そう、"自覚"している。

「ふみ、風邪引くから早く服脱げ、…ッて、オイッ!」

 壁から離れた征斗は面倒そうにぼくに近づくと、正気づけるように軽く頬を叩いてきた。そして、ぼくはその瞬間に両手を思い切り伸ばしてグイッと征斗を抱き寄せた。
 突然の出来事に征斗は身体のバランスを失ってもたついたが、慌てて浴槽の淵に手を突いて、転倒を防いだ。しかし、不安定な体勢であることには変らない。離せ、とドスのきいた声が耳元で響くが、せっかく捕まえたものをそう易々と離してあげるわけにはいかない。

「せーと、」

 腰を上げて中腰になり抱き寄せた身体にさらに擦り寄りながら、名前を呼ぶ。嗅ぎなれた煙草の匂いが鼻を掠めて脳みそが痺れた。
 征斗はぼくから離れようとするが、手を放すつもりがないことを理解するとチッと舌打ちをしながら、体を浴槽の中に移してきた。

「……ったく、なんなんだよ一体」

 悪態を吐きながらも征斗はぼくの背中に片手を回してくれて、そのやさしさに表情が緩んでしまう。 
 濡れた服の水分が征斗のワイシャツに染みていく。その感覚が不快なのか征斗が身じろぎをするのを感じたが、離れてあげる気にはなれなかった。

「せーと、」

 再び甘ったるい声を発するとため息が返され、中腰という不安定な体勢を支えるために浴槽の淵に置かれていた征斗のもう一本の腕もぼくの背中に回された。
 抱き合ったまま広いとは言い難い浴槽に座り込むと、びちゃっという音がした。

「あーあ、俺の一張羅が台無しだ」

 帰宅後のまま着替えてない征斗の服装は上着は脱いでいたがスーツのままだ。

 ――なにが一張羅だ上下で1万円の安物のくせに

 ぼくは征斗の上辺だけの悪態を無視することにして、胸に顔を埋める。体格差がわりとあるので、ぼくは征斗の腕のなかにすっぽりと納まってしまう。
 
 ――あつい、

 触れ合った肌から体温が伝わってくる。冷水で冷えた身体もいつのまにか熱を帯び始めてきて、一時の涼しさを奪っていく。
 開けておいた小さな窓から入ってくる生暖かい風が首筋に触れてきて、いまが夏真っ盛りだったことを思い出す。

 ――あつい、あつい、

 エアコンは嫌いだけど、暑いのも大嫌いで、夏は身の置き場にいつも困る。ただでさえ不安定なのに、ますます、揺らぐ思考にどうにかなってしまいそうになる。
 いや、いっそ、どうにかなってしまいたい。

「なぁ、暑いんだけど、」

 ぼくの不穏な思考を感じ取ったように征斗の不機嫌そうな声が耳に触れた。うん、そうだね、あついね。と、ぼくは心の中で返事をする。

「服も濡れて気持ちわりぃし」
「…………(うん、そーだね)」
「つーか、なんでこんな狭いとこで男と抱き合ってなきゃいけねぇの?」
「…………(さぁ、なんでだろうね)」
「……おいこら、なんとか言えよ」
 
 言っているよ。ちゃんと心の中で言っているよ。そう、またもや心の中で返事をするが、征斗に届くわけもない。ぼくの顔が窺えない征斗は「寝てんのか?」と聞いてくる。

 ――寝てたら返事はできないよ

 そう思いながら閉じていたまぶたを開ける。目の前の薄暗がりには水滴で濡れた鎖骨があった。汗なのか、ぼくから移った水なのか定かではない。

 ――ああ、おいしそうだ

 ぼくはためらうことなく鎖骨にくちづける。すると、ビクッとぼくを包み込む大きな体が震えた。その反応に言いようのない高揚感を覚えて、背中がゾクゾクした。
 再び鎖骨にくちびるを当てれば、同じような反応が返ってくる。ぼくはたまらなくなって、ついには舌を這わせはじめる。

「おまえ、なぁ……」

 咎めるような征斗の声は掠れ気味で、ぼくの劣情を煽る。

 どうしようもないと思った。ぼくはもともと頭がおかしくて、しかも今日はとびきりに暑くて、脳みそが溶けちゃうくらいに暑くて、あつくて、あつくて、あつくて、

「ねぇ、せーと、」

 鎖骨から口を離して、緩い抱擁から抜け出すと、征斗の瞳を見据えた。漆黒をたたえるそれは一瞬だけ揺らいだように思えたが、短いまばたきの後にはいつもの力強さしか窺えなかった。
 射抜くように見つめられて、熱いはずの体が震える。ぼくは目の前の男にすべてを支配されるような錯覚に陥っていく。

 ――ああ、今日は本当にあつい、

 たぶん今年で一番の猛暑日だろう。きっと死んだらすぐに腐っちゃうな、と思いながら小さく笑みを零せば、征斗は意地悪そうに口角を吊り上げてくる。ぼくはその安っぽい挑発に誘われるように、征斗の耳元にくちびるを寄せると。

「……ころして」

 熱っぽい声で陳腐な誘い文句を吐き出した。
 










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